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杜に想ふ 文化の誇り 神崎宣武

平成29年02月27日付 5面

 いま、伊勢に来てゐる。
 会議までの時間があるので、おかげ横丁の喫茶室で一休みしてゐる。ここは二階で、ガラス窓ごしに「神話の館」の入口がみえる。芝居小屋風の建物で、軒瓦の上に神話にちなんだマネキ(板看板)が掛かってゐる。
 この「神話の館」は、伊勢の神宮の遷宮年(平成二十五年)につくられた。紙人形(といっても、精巧な立体人形)による展示が中心で、何人かの入館者ごとに館員が付いてまはって神話の筋立てを語ってくれる。神話の展示館としては日本で唯一のものである。
 オープンした年こそほぼ予想どほりの入館者があったが、一昨年、昨年と入館者は減少傾向にある、といふ。衆知を集めてつくったであらうに、と思ふと気が重くもなる。
 現代人は、神話になじみにくいやうである。いや、ひとり神話にかぎるまい。日本の伝統文化への理解が薄らいでゐる、といへるのではなからうか。
 まづは、学校で子供たちにそれをほとんど教へない。たとへば、ヨーロッパから訪れた音楽教師たちの多くが、教室に邦楽関係のオーディオや和楽器が備はってゐないのを不思議がる。が、改善の兆しもない。神話についても民俗芸能についても、ほとんど同様である。さうした、ある種自虐的なまでの日本文化軽視の状況が、数十年も続いてきたのだ。
 もっとも、私のやうに備中の農山村に生まれ育った者は、子供のころから神楽になじんでゐる。そこでは、大国主の神が主人公の「国譲り」や須佐之男の命が主人公の「大蛇退治」などが演じられる。それを見てゐるうちに、あるいは真似て遊んでゐるうちに、神話がさほどに遠いものではなくなった。
 しかし、一般には、神話へのなじみが薄らいだままである。私のまはりの人文系の学者たちのなかにも、あれは古代における政策的な「つくりばなし」だとして話題にとりあげることを拒む人が少なくない。
 たしかに、神話に確たる根拠は乏しい。が、つくりばなしだとしても、まぎれもなく日本人が編じたものである。そこに日本人の「世界観」や「死生観」が投じられてゐる、と読みとるべきではないか。とくに「国生み」の神話は、世界には十八だか十九だかの民族社会にしか存在しない、とされる。さうした神話をつくった往古の日本人に対して、私たちは、もっと敬意を表してもよろしいのではあるまいか。
 英語も大事、科学も大事。しかし、かといって日本の話や歴史・文化がおろそかに扱はれてよいはずはない。ときに、神話を語る、ときに昔話を語る。さうした伝承のかたちをどこかに残さなくてはならないのだ。
 「歴史と文化がある限り国は滅びない」とは、戦乱下のアフガニスタンで唱へられた言葉である。そのところにおいて、私たちは「ジャパニーズファースト」であってよろしいのである。
(民俗学者、岡山・宇佐八幡神社宮司)




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