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杜に想ふ 見た目で外国人 須浪伴人

平成29年03月06日付 5面

 外国人に関する話題を耳にする機会が増えた、と書けば「またか」と思はれるだらう。二千万人を超えた外国人観光客とその対応、さらには東京オリンピックに向けての取組みなど、外国人に関するニュースは一向に減る気配を見せない。
 同じ外国人に関することでも、しかし、最近はいささか様相が異なる。国内に関してはこれまで同様に「迎へ入れ」や「おもてなし」などと肯定的な内容だが、こと海外においては否定的なものへと変化してゐるやうだ。
 その代表格と言へるのが、特定の国籍を有する者を入国禁止とするアメリカの大統領令だらう。これは日本のマスコミでも取り上げられ、さまざまな議論がくり広げられた。他国の、それも国防に関することなので、それこそ外国人の自分がとやかく言ふべきものではないのだが。
 また、ヨーロッパでは難民をはじめとする移民が改めて問題になってゐる。シリアにおける紛争などで発生した難民を人道的観点から大々的に受け入れたものの、社会的な無理がさまざまな軋轢を生みだしてしまった。いまでは一部で排斥運動が顕在化してゐる。
 これらのニュースを見聞きする際に注意しなければならないのは、欧米と日本における「外国人」の定義が多少異なってゐるといふ点だ。もちろん、法的には国籍を有しない者を指し、これは共通してゐる。厄介なのは国籍に関係なく見た目で「外国人」としてしまふ感覚だ。
 先日、マスコミから外国人の神主がどれくらゐゐるかについて質問を受けた。さて、同じ趣旨の質問をカトリックの神父にするだらうか。日本独得の信仰であるがゆゑに外国人神主が話題として価値があらうことは理解できるが、そもそも神職資格を取得する際に国籍を明らかにする必要はないし、当人が日本国籍を取得してゐれば、人種は違っても日本人であることには変はりがない。下手をするとこの質問は人種差別と受け取られ兼ねない。
 現在の日本では、まだまだ異人種が社会に馴染んでゐるとは言ひ難い。外国人やハーフのタレントがテレビでパンダと同列に扱はれてゐるのを見れば明らかだ。空港で日本に着いたばかりの外国人を捕まへて訪日目的を訊ねるテレビ番組があるが、彼らが単に帰国しただけならどうだらう。
 東京での話だが、近所の小学校に通ふ子供たちの中に外国にルーツを持つ子が増えた。彼らが友達との会話に使ふ言語は当然のことながら日本語で、その子たちが将来的に日本国籍を取得した場合は法的にも文化的にも日本人になるのだが、その時の社会は彼らを同じ日本人として受け入れられる社会であってほしいと思ってゐる。
 グローバル化の是非はともかく、再び鎖国でもしない限り日本の社会に異人種が増えることは避けられない。そろそろ意識的な「外国人」を再定義してはどうだらう。
(神職・翻訳家)

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