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杜に想ふ 心安らかなる舞 涼恵

平成29年05月15日付 5面

 天地の神にそいのる朝なきの海のことくに波たゝぬ世を(昭和天皇御製)。
 浦安の舞は昭和十五年の皇紀二千六百年を奉祝して、冒頭の御製に当時の宮内省楽部の多忠朝楽長が作曲作舞し、奉祝祭当日、全国の神社で一斉に奉奏された神前神楽舞である。私がこの舞に初めて触れたのは約二十年前のこと。明治神宮で開催される講習会に参加したことが始まりだった。恥づかしながらそれまで実際には浦安の舞を見たことも教はったこともなかった。未熟な自分には語ることもたいへんをこがましく憚れるのだが、今回は一つの節目として「浦安の舞」について想ひを綴らせていただきたい。
 当時、神社音楽協会の会長は多静子先生で、「皆様、おはやうございます」と一切の淀みを祓ひ清めてしまふかのやうな溌剌とした声がとても印象的だった。その姿勢はまさに天と地を繋ぐ柱の如く真っ直ぐでしなやかでとても美しかった。つぶらな瞳はすべてを見透かしてしまふやうな澄んだ輝きで、会長といふお立場にも拘らず、どこか愛らしく童心を残したままのやうな趣があった。
 舞の御指導は心に滲透しやすく明瞭で、素直な表現で説明してくださる。例へば、重心を低くして体を沈めること。単に動きの説明ではなく、多先生は「地球の中心を感じて、自分が軸になったつもりで沈む。だから決して軽くないのよ」。手を真っ直ぐに伸ばす際には「地球の外側をなぞるやうに」そんな一言を添へられるだけで、まるで自分の体が地球の一部になったやうに感じられた。
 ただ順番を覚えるだけではない奥深さ。そして一定の拍子では表しきれない緩急。現会長の先﨑徑子先生の舞や憧れる先輩方の舞を拝見すると、その場が清められたかのやうな空気に満ちてゐるのがわかる。体の動きだけではない気の流れがさうさせるのだらう。清浄な舞……。そしてそんな舞を舞はれる方は、皆一様にして謙虚なのである。
 檜扇とお鈴は神様からの借りもの。その借りものを通して息が吹き込まれ、生きてゐるから動き出す。常に扇の先、お鈴の先から動く。自分からではない。……先﨑先生の御指導には舞の本質を表す言葉がよく発せられる。それはこの神前神楽「浦安の舞」が「神人和楽」の舞で神様と一緒に舞ふ舞だからこそ。平和を祈る心の舞だと言はれる所以が舞ふほどに伝はってくる。毎年全国から集ふ講習生からも学ぶものが多く、そのひたむきさと一途さに頭が下がると同時に、浦安の舞の奥深さと難しさが見出される。形を追ふだけでは体現できない心で舞ふ難しさ。
 うらやす浦安=うらハ心ノ義ニシテ、やすハ安ノ義ナリ。心中(裏)の平安ナルヲ謂フ。
 身も心も窮屈にならずに丸く受け止める。心が安らかでないと舞へない舞だから、まづはその心のありやうを学び、自身の体でその心を再現して神様にお捧げすること。先生方からさまざまなことを教はるなかで、それこそが真髄だと感じてゐる。
(歌手、兵庫・小野八幡神社権禰宜)

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