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杜に想ふ 一つの円環 涼恵

平成29年06月11日付 5面

 神道には、教義・教典・教祖がない。筆者が米国で暮らしてゐた際、多くの宗教家と対話するなかで、他宗教との違ひを感じた一つがそれである。
 だからこそ、向き合ひ方によって浅くも深くも浸れてしまふ。私的な解釈だが、一つの教義教典に縛られることがないゆゑに、どんな宗教や学問のなかにも神道と共通する心を見出すことができるやうに感じてゐる。
 例へば、批判哲学で知られるドイツの哲学者カントの著書を読んでゐると、一見、神道の精神とは違ふ価値観を綴ってゐるかのやうに思へて、読み進めるうちに、その細密さや矛盾や混沌の先にある神祕を讚へてゐるのが、本能的に伝はってくるやうに感じる。実に興味深いことに、西洋哲学と神道は意外にも共通する点が多いのではないだらうか。
 以前から議論されてゐた道徳の教科化が小学校は来年度、中学校は再来年度から始まるといふ。そもそも道徳とは何なのか。自分自身が学校教育で教はった道徳や倫理の授業の記憶を遡れば、担任の先生の考へ方や方針に由って、生徒たちの考へる力や善悪の解釈が如何様にも変化してしまふ印象が強かったやうに思ふ。本当は感じてゐることや疑問を抱いたことを伝へてみたいけれど、恥づかしさも重なって、どこか窮屈な発言しにくい空気……。
 それよりも、不思議と小学校の理科の授業にワクワクする瞬間がいっぱいあったことを今でも覚えてゐる。アンモニアの噴水実験で、フェノールフタレインを入れた瞬間、アルカリ性に反応して赤紫色に変化する。その美しさと神祕に自分の細胞もゾクゾク反応してゐた。天文学や星座も大好きで、よく夜空を見上げてしまふ。人為的なものは自然の美しさには到底かなはない。
 カントがいふところのコペルニクス的転回とはゆかずとも、分析的な思考法による批判、発想の転換は、自分の考へてゐることを否定してみるところから始まるのだらう。道徳、哲学、物理学、化学、数学、地理、歴史、天文学、宗教等々。学術的には分類されてしまふけれど、一つの円環とでもいふべきか……。物の見方を変へてみることで、「一つの環の道筋を通ってゐる」そんな感覚に陥る。
 國學院大學で神道を学ぶにつれ、私は今まで受けた教育の根源的な要素を感じずにはゐられなかった。それだけ懐が深いといふか、教義教典がないからこそ、すべてに通じるのか。何が切っ掛けかは人それぞれかもしれないが、どこから始めても、どこで立ち止まっても、それは大いなる輪の中の接点で、巡り巡って、終はりも始まりもない境地。
 教義経典がないといふことは、ある意味「これが正しい」と限定しない寛容さと結びつく。だから常に見直し、聞き直し、考へ直す。絶えず修理固成をし続ける生き方。人の意識とは、もっと無限なのかもしれない。
(歌手、兵庫・小野八幡神社権禰宜)

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