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杜に想ふ 墨書 神崎宣武

平成29年06月19日付 5面

 「第四十五回 日本の書展」内覧会の案内をもらったが、行くことができなかった。
 作品集を送ってもらったので、ページをめくってゐる。素人目での評価は、控へなくてはならないが、とくに近年は漢字の「くづし」が大胆になってきてゐる印象が強い。よくいへば、それぞれが個性的で芸術的。ただ、軸にして床の間に掛けるか、と問はれると、返答しかねるものも少なくない。
 もっとも、和室や床の間をもたない生活が普遍化もしてゐるのだから、さうした評価が時代遅れなのだらう。書道も、いくとほりもの流儀があり、時代とともに変化して当然である。その中で、書をここまで伝承してきた人たちには敬意を表さなくてはなるまい。
 私たちの日常生活から、筆で文字を書くことが後退して久しくなる。
 ありふれた言葉ながら、「習ふより慣れろ」。だが、その機会を省く傾向がずっと続いてゐる。たとへば、パーティーでの記帳所に筆ペンさへもが置いてないことがある。また、たとへば、贈答品ののし紙の名前さへ人まかせといふ事例も多い。私ども神職や僧侶の間では、まだそれが不可欠なはずだが、それでも御札は印刷だのみ、帳面はパソコンだのみの傾向が生じてゐる。
 このことは、以前にも一度記したことがある(平成二十七年二月)。
 もう十五年近く前になるが、雲南大学(中国)でのこと。私たち一行は、民族学の研究博物院の院長室で、芳名録に記帳することになった。わざわざ、紙面を十分に使ひ絶句も添へて書いてください、といはれた。
 それに応じたのは、私だけだった。
 「最近の日本の先生方は、筆字も絶句も苦手のやうですね」
 二日後に私だけが院長室を訪ねたとき、院長氏がさういった。そして、二冊の芳名録をパラパラとめくってくれた。なるほど、日本人の署名は、八割方がサインペンかボールペンである。しかも、横書きも多い。そのなかで、ひとりだけ一ページを使っての堂々たる墨書があった。
 院長氏が、それを指していった。
 「古来、日本人と中国人は、筆談をすることで意志の疏通をはかってきたはず。その関係を崩してきたのは、日本の方々ですよ」
 私には、返す言葉がなかった。
 せめて、署名ぐらゐには筆をとらう。せめて、正月の書初めぐらゐは子供たちと一緒に筆をとってみよう。
 折しも、書道をユネスコの無形文化遺産に記載(登録)しよう、といふ運動が起きてゐる。結構なことに相違ない。が、書道家による書道保護のための運動であってはならないだらう。「せめて、一年に一度ぐらゐは筆を持つ」。さうした機会をどうすれば設けられるか、そのところでの底辺を広げる運動であってほしい。ならば、私も、しっかり応援をしよう、と思ふのである。
(民俗学者、岡山・宇佐八幡神社宮司)

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