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杜に想ふ お仕へすること 涼恵


 先月、湊川神社の楠公祭に参列し、歌を奉納させていただいたのだが、今の時代に失はれつつあるモノをひしひしと感じた。
 忠誠心――この身を捧げて生き抜くといふこと。それはまるで天と地を結ぶ一本の筋のやうに、一人の人間の人生がスッと浮かび上がる。感覚的なものだが、はっきりとその輪郭が我々に何かを語りかけてゐるやうな気がした。
 現代人は「仕事」といふ言ひ方を嫌ふ傾向がないだらうか。仕事といへばどこか義務的でやらされてゐるやうな感がどうも否めない。
 だから最近は“仕事”ではなく“志事”と書く方がしっくりくる、そんな話を耳にした。その言ひ回しも確かに素敵ではあるが、「お仕へする」、さう芯からお慕ひできる相手がゐることは尊いことで、さう選択できた自分にも誇らしさや、もっと豊かな感情を抱いてゐるのではないだらうか。
 二つの場面が浮かび上がる。
 私事で恐縮なのだが、お義父様が亡くなられた時、お義母様が、「私があの人に仕へて……」と思ひ出話を聞かせてくださった時、夫婦の絆といふものを強く印象付けられた。
 お産の時に分娩台で初めてわが子と目が合った瞬間、まだ人間になりきってゐないその神々しい小さな存在に、思はず「一生お仕へします」と手を合はせてゐた。
 お仕へするといふことは、他人事でなく実はとても身内的な感覚なのかもしれない。日本はやはり国といふよりも家族といふ一つの共同体のやうに感じてゐたのではないか。他人といふ認識よりも、命はどこかで繋がって、御縁があった人とは、家族のやうに結束する。
 仕事といふ概念が、個人の労働といふよりは、「相手は何を求めてゐるだらう」「どうすれば喜んでくれるだらう」と、その要求に気付ける細やかさや純粋な行動が始まりのやうに感じられる。
 大人数で一つのことを成してゆく連携した姿勢で、自分自身が何かを成し遂げられなくても、周りにゐる誰かが成し遂げられるやうに、その人の力が発揮できるやうにお支へする。働くといふことは、傍を楽にすること。
 人の役に立てる自分であること――さうあり続けることは決して容易ではない。だからこそ、プロ意識といふべきか、自身が担ふ仕事への責任感も強くなる。この身を捧げて生きることは、どこか清々しくて潔い。
 悲しいことに、昨今では自分が何者で、何がしたいのかもわからない若者が増えてゐると聞く。自分に焦点を当ててばかりだと、かへってわからないのかもしれない。
 相手は自分を映し出す鏡。対人を通して自分のやりたいことや為すべきことが見えてくるものではないだらうか。
 さういふ意味で我々神職は、神様と毎日向き合はせていただける環境であることが、とてもありがたくて忝い。
 やはり今日も自然と頭が下がるのである。
(歌手、兵庫・小野八幡神社権禰宜)

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