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杜に想ふ  「知る」といふこと 涼恵

平成29年08月14日付 5面

 神社に参拝に来られる方々のなかには、何か胸のうちに抱へるものを明らかにしたり、神様を通して自分と向き合ふ時間を求めてゐる方がいらっしゃるやうに感じる。
 「おはやうございます」「ようこそのお参りでした」
 こちらから一声掛けたことをきっかけに、御自身の中にあるものをフッとお話してくださる方がいらっしゃる。皆様もそんな経験がおありではないだらうか。
 まづは知ることからはじまるのかもしれない。何も知らなければ慮ることもできない。そして、知るといふことは責任も生じるといふこと。知った後にどう行動に移すのか。分かる、理解するの手前に「知る」があるのか。ただ知ってゐるだけでは分かるとは言へないだらう。
 知ったといふ現実の先には、想像力が有効だと痛感する。相手への想像力。自分に何ができるのかを想像してみること。先を読む力。視野の広さ。思慮深さ。人の上に立つ者はとくにその能力が長けてゐるやうに思ふ。
 例へば神話のなかで、スサノヲノミコトが、川から箸が流れてくる現状を見て、その先に生活があることを読んだやうに、これからの展開がある程度までは感覚として、また経験として想像できる素養。日本は知らす国といはれる。「うしはく」と「しらす」。ともに統治的観念を示す言葉だが、『古事記』の国譲りのくだりでは、「汝がうしはける葦原の中つ国は、我が御子の知らす国ぞと言依さし賜ひき」と、明確な対比が読み取れる。「しらす」とは、現代的な解釈をしてみると意識や情報の共有といへるのかもしれない。
 しかし、これだけインターネットが普及し、マスメディアが発達した情報空間で、真実を知ること、本質を見抜くことは厳しい環境にあるとも言へる。不確かな情報を拡散することが容易な時代だからこそ、伝へる側も責任を持って発言したいものだと筆を進めながら、私自身にも言ひ聞かせてゐる。
 情報過多になる一方で、無関心な現代人も比例してゐるやうに感じる。世界中のニュースが流れてきてもどこかしら蚊帳の外にゐるやうな、鈍感さや冷たさ。ネットを通じて知ることで、責任が稀釈されてしまふ怖さを感じてゐる。
 だからこそ我々神職は、仲執り持ちとして、直接的に見聞を広め深めることが求められてゐる気がしてならない。知らうとするアンテナと、伝へようとする姿勢。受信力と発信力――このバランスが時に難しいのだが、その微妙な塩梅を測るのが人間関係を築く面白味でもあらう。
 移りゆく時代のなかで、氏子さんや参拝者を通じて会話のなかで情報を共有してゆく。まづは知り合ふこと。そして徐々に分かり合ふ。それが地域社会の紐帯へとなってゆくことに繋がるのではないだらうか。
(歌手、兵庫・小野八幡神社権禰宜)

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