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杜に想ふ 見切る力 涼恵

平成29年09月11日付 4面

 最近、自分には見切る力が足りてゐないと強く感じることがある。元来、自分は諦めの悪い方で、見切ることに対してどこかしら寂しさや冷たさを感じてゐたのだが、歳を重ねれば重ねるほどに、見切らなければ却って周りに迷惑がかかる。そんな場面が増え、避けられない取捨選択や優先順位があるのだと現実的に知らされる。“見切る”や“見限る”といふと、どうしてもネガティヴな意味合ひばかりを感じる人が多いのではないか。果たして本当にさうだらうか。
 粘り強く継続させるための見切りもあるやうに思ふ。例へば植物や樹木の剪定。奉務するお宮には大きな楠があるのだが、ある日その枝葉がバッサリと刈られてしまった時のこと、喪失感と見窄らしさに「何で切っちゃったの!」と心が痛んだことがある。
 しかし、それから二、三年後、その楠は刈られる前よりおほきく成長してゐたのである。枝を切り形を整へる。見た目を美しくするだけでなく、風通しが良くなる。病や害虫の繁殖を予防する効果もあり、養分を効率よく利用し成長を促進させる効果があるといふ。
 山でいふと間伐。生きる力を凝縮させるためにおこなはれ、さうすることで陽当たりも変はる。その時に私は、専門家の判断の精確さや、生命力の強さを感じた。
 生かすための見切り。今回は諦めるしかないことでも、もっと先を見越せば、次に発展するための通過点であって、まだ結果ではない。変化対応力とでもいふのか。見切れずにゐるのは、臆病になってしまって変化を避けたいがための場合もあるかもしれない。
 なんとなく流れに任せることで、うまくゆく場合もあるが、自分が取捨選択をして責任をとらなければならない場面もある。見切るとは、状況を見極めて適切な判断をすることとも言へるのではないか。さう捉へると、見切ることはむしろ粘り強いことであるのかもしれない。ある新聞社の編集長がこんな話をしてくれた。書くといふ行為自体が選択であり、書くといふことが切ること。文章とは省略の技術だと。その言葉を選択したといふことは他のものを捨てたといふこと。
 日常は選択の連続で、今日何を食べるのか、誰とゐるのかも。ましてや神職ともなると、自分の身の回りのことだけでなく、地域、日本、世界と、視野を広く公平に在り続ける努力をしなくては務まらないもの。そんななかで見切る力といふのは、身に付ければ身を助け、他者を導くことに繋がるのかもしれない。
 自分の丹田に聞いてみる。本当に自分がやりたいことなのか。成すべきことなのか。必要なことなのか。臆病にならずに選んで捨てる勇気。それが次に繋がってゆく。その連続……。
 諦めずに粘ることも、見切る潔さも内包できる。実は一人の人間のなかに混在してゐるのではないだらうか。
(歌手、兵庫・小野八幡神社権禰宜)

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