文字サイズ 大小

論説 「人霊祭祀」とは神道教学研究大会を顧みて

平成29年09月18日付 2面

 本紙今号に掲載の通り去る九月五日、第三十五回神社本庁神道教学研究大会が開催された。本大会は「人霊祭祀」を主題に掲げた昨年・一昨年の大会における成果を踏まへ、「人霊祭祀、顕彰と継承と」と題して近代に創建された「人霊祭祀」神社に再び焦点を当てることで、わが国の「人霊祭祀」の伝統と信仰的営みを再確認し、その教学的位置付けを明らかにするための一助とすることを目的としたものである。



 過去二回の大会では、「人霊祭祀」に関して概ね次の如き歴史的変遷が確認されてゐる。古来「人霊」を「神」として祀る風習はごく僅かな例にとどまり、古代律令制において「神祇祭祀」と「人霊祭祀」は一線が画されてゐた。平安中期から中世にかけて、大陸の思想を媒介とする御霊信仰を淵源に、「人霊」を「神霊」として祀る天神信仰が展開されるとともに、一族紐帯の信仰である「優れた先祖・先人の神霊」の顕彰祭祀が地域社会において定着し共存することもあった。中世後期から近世には、神と人との関係を密接に捉へた吉田神道の影響下において、豊国社や東照宮が成立。その後、儒家神道や国学、さらに水戸学の諸思想に基づいて、藩祖、義人等を敬仰・祭祀する祠堂、墓所と御霊を祀る小祠など、「人霊」を「神霊」として祀る動きが活溌化し、あはせて神葬祭が復興・実践されていった。幕末維新期には、殉難した志士らを慰霊・追悼・顕彰する招魂祭の斎行や招魂社の創建といった「英霊祭祀」も執りおこなはれるやうになった。
 このやうな流れから、近代には天皇・皇族はもとより、尊皇の志篤く、皇室の安寧と国家の隆昌に顕著な功績を有する功臣・忠臣や志士、国事殉難者などを祀る「人霊祭祀」神社が、国家的公共性を有する別格官幣社等として次々と創建されていったのである。さうした近代の営為について、「人霊祭祀」の本質に関はる「人霊」と「神霊」との違ひをめぐる問題との関はりでいへば、「人霊」を「神霊」として神社に祀ることは、祭祀の性格が「私」から「公」へと変はること、つまり「個人の魂」を「子孫以外が祀る」といった、「家の霊魂」から「公の霊魂」への変化を表してゐるとも解釈できるだらう。



 かうした歴史的経緯や性格の変遷からも、先祖・偉人・義人・英霊など対象が多岐に亙る「人霊祭祀」を総合的に捉へ、統一的意見を導き出すことは至難であり、本大会で取り上げられた神社も祭神の事績や縁起等が多様であることはいふまでもない。ただ、次の二つの視点は見出せるものと考へる。
 一つは天皇との関連に創祀の由縁を持つ点であり、靖國神社や湊川神社は明治天皇の思召しにより天皇・皇室の尊崇に基づき創建された。また武田神社の創祀は明治天皇の巡幸を最初の気運とし、大正天皇即位大典にともなふ祭神への従三位追贈が直接のきっかけとなった。さらに佐賀藩の「楠公奉斎」が尊皇思想に基づくことは論を俟たない。このやうに「人霊祭祀」には、思想・現実の両面における天皇との関はりが創祀の契機となってゐる点を挙げることができる。
 もう一つは、地元・地域の信仰によるとの視点で、南洲神社や篠山神社がこれに当てはまる。藩祖・藩主を祀る神社の多くもこの点で共通してをり、常磐神社や尾山神社のやうに地域の人々の信仰に基づき創祀された小祠や霊社が、後に別格官幣社に列格された事例もある。加へて前述の武田神社の創祀も地域信仰を一要因としてをり、これら二つの視点を複合して捉へることが可能な神社もある。かうした地域信仰の視点は、一般に政治的側面のみが強調されがちな近代の「人霊祭祀」について、市井の人々による純粋な顕彰と信仰の存在、さらにその継承から読み解くことが、正確な理解に繋がることを示してをり、国家的公共性とともに、地域に根ざした社会的公共性にも注目する必要があるといへよう。



 「人霊祭祀」には、個々の祭神・神社が有する個別的性格が指摘できる一方で、「神祇祭祀」にも共通する祭神・神社に対する信仰といふ普遍的性格が認められる。このやうな視点を含め、これまで全三回の大会を通じて「人霊祭祀」の歴史や性格について議論を重ね、さまざまな知見を提供してきた成果を基盤として、今後も引き続き「人霊祭祀」に関する教学の構築に取り組んでいかねばならない。
平成二十九年九月十八日

オピニオン 一覧

>>> カテゴリー記事一覧