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論説 後陽成天皇式年祭 今に続く尊い聖徳を感じて

平成29年09月25日付 2面

 九月二十五日に、後陽成天皇四百年式年祭が、皇霊殿及び京都・伏見の深草北陵で執りおこなはれる。今年六月には三條天皇千年式年祭があり、また十月には伏見天皇七百年式年祭が斎行される予定である。崩御後、百年を過ぎてからは百年ごとに式年祭を執りおこなふのが皇室の例であり、改めてその永い歴史と篤い崇祖の伝統に思ひが至る。そこで、ここでは第百七代・後陽成天皇の御事績を偲んでみたい。



 後陽成天皇は、第百六代・正親町天皇の皇子である誠仁親王の第一王子として、元亀二年(一五七一)十二月十五日に御誕生になられた。正親町天皇の御譲位の期日が内定された中で、皇儲である父・誠仁親王がにはかに病のため薨去されたことから、代って皇儲に定められ、祖父・正親町天皇の譲りを受けて天正十四年(一五八六)十一月七日に践祚された。御在位は二十六年に及び、慶長十六年(一六一一)三月二十七日に後水尾天皇に御譲位された。
 後陽成天皇の御代は、戦国末期の動乱から豊臣秀吉が天下を統一し、その後、徳川家康が征夷大将軍に任命されて江戸に幕府を開くなど、太平の時代への移行期にあたる。天正十六年におこなはれた豊臣秀吉の京都の私邸・城郭「聚楽第」への行幸は、多くの武家が供奉し、豊臣氏の威勢を天下に示すものであった。しかし、朝鮮出兵の失敗を経た、豊臣氏の急速な凋落には、権力の儚さを思ひ知らされる。



 後陽成天皇は和漢の学に御造詣が深く、朝廷の故実にも通暁され、朝儀の復興、学問の復興にも努められてゐる。天皇の御事績として名高いのは、慶長勅版と呼ばれる古典籍の出版である。朝鮮から伝来した活字の法を用ゐて木版活字を作り、『古文孝経』『勧学文』『日本書紀神代巻』『大学』『中庸』『論語』『職原抄』などを出版して廷臣に配られてゐる。近世学問発展の基礎が創られたと言っても過言ではない。
 「古今伝授」を守られたことでも有名である。古今伝授とは、『古今和歌集』の解釈を祕説として伝へたもので、代々伝へてきた二条家が断絶し、その後、東常縁から宗祇に、さらに宗祇は三条西実隆ほかに伝へた。三条西家では一子相伝で伝へてきたが、三条西実枝の子が幼少であったため、成長後に伝授する約束で武将の細川幽斎に伝授した。
 慶長五年の関ヶ原の戦ひの折、細川幽斎は丹後の田辺城に籠城し、石田三成方の軍勢に囲まれて討ち死にを覚悟したといふ。その時、後陽成天皇の弟宮・八条宮智仁親王は古今伝授の絶えることを惜しみ、使を遣はされ和議を進められたが、幽斎はこれを拒否。このことが上聞に達して、後陽成天皇は、幽斎が討ち死にしたら、本朝の神道奥義、和歌の祕密が永く絶え、神国のおきても空しくなることを憂慮され、勅使を派遣されて和議を実現された。かうして古今伝授は智仁親王に伝へられ、さらには後水尾天皇へと伝へられて御所伝授の道が開かれたことで、近世和歌興隆への道筋が創られたのである。



 後陽成天皇が、学問に御造詣の深かったことは、宸筆の御著書が数多くあることでも明らかである。文学に関するもので「百人一首御抄」「詠歌大概御抄」「伊勢物語愚案抄」など、朝儀に関するもので「親王宣下次第」「女院殿上始次第」「元三殿上淵酔略次第」「叙位不審条々」などがある。かうした調査をもとに、慶長六年に叙位を復興され、慶長七年には大永二年(一五二二)以降絶えてゐた殿上淵酔を再興されてゐる。殿上淵酔とは、正月や五節の大礼の後、天皇が清涼殿に臨御して殿上人が内々に催す酒宴で、朗詠や万歳楽などがおこなはれた。
 御著書の奥書には、「従神武天皇百餘代孫周仁」などの御署名があり、神武天皇以来の皇統を常に御自覚されて過ごされてをられたことを知ることができる。『日本書紀神代巻』の出版により、廷臣らもそのやうな意識を自づから深くしたことであらう。
 江戸時代における朝儀復興、祭祀復興、和歌振興、学問興隆などは、後陽成天皇によって基礎が創られ、その後の御歴代が受け継がれた。常に世の平安を祈り、一歩づつ廃れたものを興していかれたのだ。戦国末期に、かうした道筋を打ち立てられた後陽成天皇の聖徳、皇室の御精神には、改めて限りなく尊いものを感じさせられる。
平成二十九年九月二十五日

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