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論説 新嘗祭を前に 神社の本質を見直したい

平成23年11月21日付 2面

 七五三行事もそろそろ終了し、町中には歳末を告げるイルミネーションなども目立ってきた。新嘗祭の奉仕が終はると、いよいよ十二月が間近に迫り、全国各地の氏神神社では、歳末の神札頒布の時期を迎へる。
 神職また氏子総代・神社奉仕者の手によって神宮大麻と氏神神社の神札が各家庭に頒布され、新年を前に家庭の神棚に祀って、日々拝礼する姿が家庭祭祀の代表的姿であることはいふまでもない。関係者の奉仕によって全国での頒布活動が毎年変はらずにおこなはれてゐることは、神社界として誇るべきことである。
 しかし、神札の奉斎数は変はらずも、核家族化、単身生活者の増加によって世帯数は増へ、その結果、奉斎率は低下してゐるやうに見える。神棚奉斎促進、家庭祭祀の振興は神社界にとって重要な問題であり、とくに核家族化によって失はれつつある家庭祭祀などの伝統の継承については重要視しなければならない問題だ。年末年始にかけては一層この課題克服が重要となるが、もし神社界内部において神棚奉斎の運動に齟齬をきたすやうな部分があれば、早急に是正せねばならない。

 神棚奉斎促進に繫がる神宮大麻増体運動は、神社本庁を中心として、全国神社関係者の努力によって続けられてゐる。そして、その努力によってさまざまな施策が打ち出され、一定の効果を上げてゐることは悦ばしいことである。施策の一つひとつには、その地域特有の事情に鑑みたもの、また全国的に応用の効くものなどの事例が見られるが、なかには「神宮大麻増体」といふ言葉に囚はれ、「地域の氏神神社の神札とともに奉斎する」といふ重大な要素を忘れてゐるのではないかと疑念を呈するやうなものも散見される。
 神棚には、神宮大麻・地域の氏神神社・崇敬神社の神札をお祀りし、我々はそれぞれがどのやうな存在であるかを意識させつつ拝礼してもらふことを教化する必要がある。神宮大麻は氏神神社の神札とともに、氏神神社から頒布されることが原則とされてゐるが、増体といふ言葉の一人歩きから、啓発資料の中にまで氏神神社の神札頒布を忘れた記述をおこなひ、自己矛盾を招来するやうな例が見られることもある。関係者の努力が、結果として誤った方向に進まぬやうに注意する必要もあらう。

 一方、神社自身が自らの伝統的信仰を否定するかのやうな動きに巻き込まれ、神棚奉斎の意義を忘れがちになることもある。現在の「パワースポット」ブームなども、神社が影響され本姿からの逸脱を招きかねないやうな事例だ。
 神社が祈りの場として、いはゆるパワースポットに対応するのは間違ひないことであらうが、問題は本来の信仰とは無関係の事象をパワースポットと喧伝されることにあるといへる。さうした喧伝が起こったときに神社本来の信仰と関連づけることができぬまま、流れに動かされるやうな新たな形態が発生し、その新事象のみで信仰が完結してしまふかのやうな事態が最も懸念されるところだ。
 具体的には、境内の一角に佇むことだけで満足を得て、神前での祈りを無視するやうな事例である。関係者がかうした人びとに祈りの重要性を告げて神社本来の姿を啓発できればよいが、ただ境内を訪れる人数の増加のみを喜ぶことに終始し、例へば神棚奉斎に繫げる試みを怠るのであれば、神社人自らが伝統への背信行為に手を貸してゐることにもなりかねない。

 まもなく奉仕する新嘗祭は、聖上が御親ら奉仕され、また新穀を聞こし召す重要なお祭りである。そして我々神社人が奉仕する新嘗祭も、単なる新穀感謝祭ではない。古くからの伝統に則って斎行せられる聖上の御手振りに倣ひ、個人的な豊作報謝だけではなく、広く公共の豊作安寧をよろこび地域の安泰を忝なくする祭りと考へて奉仕せねばならないものである。
 歳末の神札頒布も、同じく国家・公共・個人が連携してゐる神社信仰の中にその意義を見出すべきものである。なぜ神宮大麻と氏神神社の神札を合はせて頒布せねばならないのかを、公共国家の存在とともに見直してほしいものである。
 そして迎へる新年の行事においても、単なる個人信仰の場ではない神社の姿を顕現するために、各神社・神社人がどのやうな立場にあるのかを自覚して準備を続けていただきたい。 
平成二十三年十一月二十一日