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杜に想ふ 神崎宣武 下町の居酒屋

平成29年11月20日付 5面

 仕事場(台東区谷中)の近くに「すずらん通り」といふ横丁がある。俗にいふところの飲み屋街である。小さな居酒屋やスナックが十数軒。よくぞこれだけ古びたままで残ってゐる、と感心するほどの横丁である。
 そのなかの某居酒屋に、私は、時どきに顔を出す。八十三歳になる女将がひとりで切り盛りをしてゐる店で、すいとんが名物料理である。
 十月中ごろのその日、先客があった。壮年のイタリア人のカップルである。
 女将が、微苦笑を私に向けて、ちゃうどよいところに来てくれた、相手を頼む、といった。それで、カウンターに横並びで彼らと話すことになった。
 二週間の休暇をとって、はじめて日本に来たのだ、といふ。前日に来日したばかりで、浅草に宿をとって五日間の東京滞在、あとは北海道と京都をまはる予定、とのこと。その日の昼間は浅草を歩き、区内循環のバスを利用してここに来た、といふのである。
 しかし、なぜにまた。と、私は、素直な疑問を口にした。
 すると、ガイドブックに、東京で日本らしい日本にふれられるのは「下町の居酒屋」と載ってゐる。そして「すずらん通り」も紹介されてゐるのだ、といふ。
 それから話がはづんだ。彼らからの質問も多かった。多くは、想定内であったが、ひとつだけ返答に困る質問があった。
 「日本では、なぜ、あんなに多くの人がマスクをしてゐるのですか」
 ヨーロッパでは、まづ見かけない姿であるさうだ。
 大気汚染なのか、疾患の流行なのか、と問はれた。インフルエンザが流行する冬場ならともかく、まだ日中汗ばむ日もあるこの時期となれば、それは否定するしかない。さういへば、マスクをする習慣じたい、日本でもさほどに古い習慣ではなからう。
 私が首をひねってゐると、彼の方から意見がでてきた。
 「日本人は、お互ひの信頼感が強いからではないか。ヨーロッパでは、マスクで顔を覆ふと怪しまれる」
 彼女も発言する。
 「日本人は、神経質。ヨーロッパでは、さう評されてきた。潔癖症が過剰に反応してゐるのではないか」
 彼らは、私などが足元にも及ばないみごとな英語を用ゐながら会話を楽しむ。私は、感心して聞き役にまはってゐた。
 それで、ふと気づいた。日本人は、神仏に詣でてもマスクを外さないのではないか。
 これをどう見たか、と彼らにたづねてみた。
 「日本人の神仏は、きっと鷹揚なんでせうね」
 秋の夜長、いつの間にか銚子(二合入り)三本が空いてゐた。
(民俗学者、岡山・宇佐八幡神社宮司)

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