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杜に想ふ 帰省 神崎宣武

平成29年12月18日付 5面

 地方創生、といふ。
 これまでも、ふるさと創生とか地方の時代とか、いくつかの標語が唱へられてきた。一方で、過疎集落・限界集落などといふ言葉も生まれた。そのつど、問題意識が高まるものの、たしかな成果は乏しい、といへよう。
 ここでいふ「地方」とは、かつてのムラ社会である。私の郷里は、吉備高原(岡山県)上の農村。ほぼ五十年にわたってそこと東京との往反をくりかへしてきた。
 氏神や産土神(産土荒神)の祭礼は、まだ続いてゐる。神輿渡御がなくなったところもあるが、宵宮での神楽は奉納されてゐる。もっとも、神楽も毎年だったのが隔年か三年に一度に略される傾向にもある。
 そこでは、株神(本家・分家での同族神)の小祭も存続するが、それも減る傾向にある。
 もちろん、高齢化にともなってのことである。後継者不足にともなってのことである。それでも、二、三十年前までは都会に出た子供たちが帰省もしてゐた。それが、最近では、当番(頭屋・当屋)になる家でも子供たちが手伝はない例がみられるやうになった。
 時代とともに、ムラへの回帰意識がかはってきた、といへるだらう。いたしかたないことであるが、さみしいことである。
 地元での、出身者を「まつり」に呼び戻す意識も乏しかった。
 「まつり」の意義をあらためて問ふと、ひとつには神仏や祖霊を「祀る」ことにある。もうひとつには、そこに縁のある者が「集ろふ」ことにある。その後者の一方が欠落しつつあるのがムラを脆弱化させてゐるのである。
 私は、台湾のアミ族の村にフィールドワークでもう四十年も通ってきた。
 八里湾といふそのムラは、二十四戸。私がいきはじめたころは、百七十人以上もの人が定住してをり、小学校もあった。それが、現在(といっても、五年前)は、十七戸で三十数人。過疎であり、限界集落である。
 しかし、八月はじめの収穫祭では、都会に出た家族も帰ってきて昔どほりににぎはふのである。それは、収穫祭と葬儀には血縁者が集まることが、義務になってゐるからである。
 とくに、作業や歌舞では年齢階梯制がはたらく。つまり、同年齢層での出夫義務があり、これに加はらないとペナルティ(罰金)が科せられるのである。
 前夜の準備が終はったところで、飲食を共にする。そこで、長老たちが一人づつ立って、村の由来やまつりの意義を説くのだ。若者たちも、質問や意見に立つ。かうして伝統が持続されてきてゐるのである。
 私も、それに学んで「出氏子」の制度を考へたことがある。が、時機を逸し、つひに実施にはいたらなかった。もう打つ手がないやうにも思ふ。
 しかし、さうしたムラにもまた新年がやってくる。ただただ、細々とでも恙なき継続を祈念するしかあるまい。
(民俗学者、岡山・宇佐八幡神社宮司)

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