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論説 歌会始 皇室と国民を結ぶ伝統行事

平成30年01月29日付 2面

 本紙前号に掲載の通り、新春恒例の宮中歌会始が去る一月十二日、皇居正殿の松の間で古式ゆかしく執りおこなはれた。
 今年の勅題は「語」で、その題を詠み込んで一般から詠進された和歌は二万四百五十三首。これらの中から選ばれた選歌十首、選者代表の歌、とくに天皇陛下から詠進するやう召された召人の歌、続いて皇族代表の絢子女王殿下、皇太子妃殿下、皇太子殿下のお歌が順に披講された。次に皇后陛下の御前から御歌の書かれた懐紙を読師が披講席へと運び、参列者が起立する中、御歌が二回披講された。そして最後に、天皇陛下の懐紙が披講席に運ばれ、皇族方と参列者が起立するなか御製が三回披講された。
 御製、御歌、皇族方のお歌、選者、召人の歌、選歌十首は本紙にも掲載されてをり、また独得の節回しで披講される様子はテレビで放送されてゐるので、多くの国民が家庭において陪聴することができる。この和歌の披講は、宮内庁歌会始披講会の会員によってその伝統が継承されてゐる。いづれも宮中に古くから仕へてきた公家の末裔の方々である。また、会場における陪聴者は今回の場合は八十七人で、皇室にゆかりの神社関係者も含まれてゐたといふ。
 歌会始は新年にふさはしい雅やかな宮中の伝統文化を今に伝へ、皇室と国民とが和歌を通じて結ばれる麗しい行事といへる。


 歌会始の起源は鎌倉時代にまで遡るとされるが、共通の題で歌を詠み披講する歌会は、すでに『万葉集』に見えてゐるので、相当に古くからの伝統であることが知られる。天皇が主催される歌会を「歌御会」といひ、新年にあたり催される歌御会を「和歌御会始」といって江戸時代にはほぼ毎年おこなはれてゐた。
 因みに、江戸幕府が定めた「禁中並公家諸法度」では、第一条で天皇の主たる務めを規定してゐて、その第一に治世に必要な学問を挙げ、次いで和歌はわが国の習俗で棄て置くべからずとする。勅撰和歌集編纂の伝統を顧みれば、和歌は神事とともに皇室が最も大切にしてきた文化ともいへ、法度以前からの伝統であったことは、御歴代の御事績がありありと語ってゐる。
 明治維新以降も明治天皇の思し召しにより、明治二年正月には京都御所の小御所で歌会始がおこなはれ、七年からは一般国民の詠進が認められた。十二年からは一般国民からの詠進歌の中からとくに優れたものが選歌として披講されるやうになり、今日の基礎が作られ、さらに二十一年には宮中に御製や歌会始のことを司る「御歌所」が設置された。戦後、御歌所は廃止されたが、その組織改編を経て、宮内庁の歌会始委員会(会長は式部官長)の下で歌会始がおこなはれてゐる。


 和歌の披講は、読師が進行する。古くは摂政・関白といった最高位にある歌道の権威者が務め、勅撰和歌集の八代集を諳んじてゐなければならないとされ、その所作には美しい品格が求められたといふ。披講される和歌は、一定の書式で懐紙にしたためられて読師により披講席に広げられる。すると講師が預選者の氏名などを読み、さらに選歌を節をつけずに読み上げる。講師は、歌の内容と言葉をはっきりと伝へるのが役目なのである。
 続いて発声が初句を、曲節をつけて独唱する。二句目から講頌四人が加はり、朗唱して一首を披講する。披講は言葉をよみがへらせる文学といはれ、文字により視覚に訴へるのではなく、言葉の響きを再現して耳に訴へる和歌本来の発表形式なのである。節には甲調、乙調、上甲調の三種があり、御製は上甲調、上甲調、甲調と三回披講され、御歌は乙調、乙調の二回披講されることになってゐる。


 今年の御製は、早朝の散策の途中キンランの花をお見つけになられたときのことをお詠みなったものだった。キンランは、戦後間もない時期に小金井にお住まひになられた際に初めて御覧になった思ひ出の花だといふ。
 一方、御歌は「全身全霊で」重責を果たされてこられた天皇陛下のこれまでの歩みを思はれ、早春の穏やかな光の中の御姿を詠まれたものだった。
 歌会始を通じて、両陛下の御心境に触れることができるやうで、洵にありがたいことといへる。
平成三十年一月二十九日

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