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論説 銅鏡の御下賜 「国安かれ」との聖慮を拝す

平成30年04月09日付 2面

 天皇・皇后両陛下には三月十九日、奈良・橿原神宮に青銅円鏡「橿原の杜」及び附属品一式を御下賜遊ばされた。洵に畏き極みである。
 銅鏡には、八咫烏、畝傍山、樫の葉が配され、周囲に天皇陛下のお印「榮」に因んだ桐の文様が施されてゐる。製作者は「現代の名工」の山本富士夫氏である。附属品の鏡の紐は、皇后陛下が紅葉山御養蚕所で育てられた「小石丸」種を使用した茜染めの角打ち組紐。鏡箱は乾漆螺鈿鏡箱「榮に白樺」で、両陛下のお印「榮」と「白樺」に因んだ文様を施してゐる。中敷きは「八稜唐花文」を施した綾織の裂で、真綿を包み縫製してゐる。両陛下の深き御心のこめられた御下賜と拝される。


 天皇・皇后両陛下には、平成二十八年四月三日、神武天皇二千六百年御式年に際して神武天皇山陵での式年祭に出御せられ、橿原神宮に御参拝された。その折、御下賜の思し召しがあり、御準備が進められて、今年の神武天皇祭を前にしての御下賜となったものである。
 周知のやうに橿原神宮は、明治二十三年四月二日に御鎮座した。京都御所の賢所を本殿に、神嘉殿を拝殿として御下賜され創建された。橿原宮址保存に関はる地元民から、神武天皇の神霊を祀る神社を設けたいとの強い要望を受けてのことであった。
 明治天皇は、明治三十七年九月十四日に神宝として太刀一振を御寄進になられてゐる。「刀身は、式部職旨を奉じ、堀井胤吉に命じて新に作らしむる所、白鞘に納めて之れを賜ふ、尋いで二十九日、皇后亦別に白銀八角鏡一面を寄進したまふ」(『明治天皇紀』)とある。時あたかも日露戦争最中のことであった。因みに堀井胤吉は近江・膳所藩に仕へ、明治以降宮内省御用刀匠として重きをなした。今回の御下賜はそれ以来のことである。


 今年は明治維新百五十年といふ記念すべき年である。慶応三年十二月九日に王制復古の大号令が発せられ、そこには「抑も癸丑(嘉永六年)以来、未曽有の国難にて、先帝(孝明天皇)頻年宸襟を悩まされ候御次第、衆庶(諸々の人)の知るところに候」との御認識から、王政に復古し国威挽回の御基を立てられようと、摂関・幕府等を廃絶して「諸事¥外字(b33b)武創業の始に原き」国民こぞって力を合はせて新国家建設に邁進せよとの趣旨が示されてゐる。
 初代・神武天皇が東征を成し遂げられ建国された故事に返るといふのは、どのやうなことだらうか。神武天皇は日向国にあって国の中心はもっと東にあり、先祖が正しきを養ってきた心を広められようと美々津を出発された。天皇はいやしくも人々に利の有ることであれば、誰も妨碍するものはないだらうとの御信念で進軍されるが、賊軍に阻まれ苦戦される。やがて神々の御加護も得て、八咫烏の先導により大和を平定されたのである。そして畝傍山の麓に橿原宮を造営され、初代天皇として即位された。橿原宮は樫の葉に象徴される青山めぐる美し処である。ただ、たび重なる御苦難の末の御即位であったことは、記紀の伝承が語るところである。


 顧みれば百五十年前の維新にあたり、わが国は未曽有の危機を迎へてゐたが、「諸事神武創業の始に原き」乗り越えることができた。橿原神宮はそのやうな近代国家の歩みの中で民意を背景に創建された。当時、神武天皇が御苦難の末に建国されたといふ伝承は、どんなにか国民に勇気を与へたであらうか。とくに紀元節の誇らしさは、際立ってゐたに違ひない。
 戦後、占領政策により神話が否定され、神武建国に基づく紀元節は廃止されてしまふ。しかし神社界を含めた先人の尽力により昭和四十一年に「建国記念の日」として復活した。宮中でも紀元節祭は廃止されるが、昭和天皇の思召しで臨時御拝として続けられ、現在も三殿での御拝礼が執りおこなはれてゐる。そしてなにより、四月三日の神武天皇崩御日には神武天皇祭が大祭として斎行されてゐるのであり、ここに戦後の断絶はないのである。
 終戦から七十余年を経てやうやく冷静に神武天皇建国のありがたさを実感できる時代が到来したともいへる。このやうな中で明治三十七年以来となる両陛下の御下賜は大きな意義を持つ。銅鏡の意匠は聖なる八咫烏、神代以来変はらぬ畝傍山の雄姿、そして生命力に満ちた樫の葉である。「国安かれ」との深い聖慮が伝はってくる。

平成三十年四月九日

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