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論説 創祀御沙汰百五十年 楠公精神と湊川神社

平成30年04月30日付 2面

 楠木正成公を主祭神とする神戸の湊川神社は四月二十一日、「創祀御沙汰百五十年祭」を臨時祭として斎行した。
 近年、マスコミ(産経新聞)の連載「楠木正成考―「公」を忘れた日本人へ―」やそれをもとにした冊子制作、関連シンポジウム開催、楠公ゆかりの市町村(神戸市・四條畷市・富田林市・河内長野市・島本町・千早赤阪村)における文化庁の「日本遺産」への申請(認定に至らず)や大河ドラマ誘致協議会発足など、著名人や行政の参加も得た楠公関連諸行事に湊川神社は協力し、祭神の広報活動へと繫げてきた。
 今回の臨時祭に合はせ湊川神社が主催した記念シンポも多数の聴衆を集めたやうに「楠公さん」は再注目されつつあるが、今こそ楠公精神に関する神社界(とくに本紙)の視点を改めて確認しておく必要があるやうに思ふ。


 今から五十年前の「湊川神社創祀御沙汰百年」に当たる昭和四十三年、当時の吉田智朗湊川神社宮司は、本紙(一月六日付)に寄せた文章「明治維新と湊川神社」において、「幕末志士の大楠公崇拝と、近代日本の起点である明治維新と、別格官幣社の嚆矢である湊川神社の御鎮座。この三者の系列には、深い連関があり、この連関のうちにこそ、明治維新の実相を伺ひ、その本質を解く鍵がある」と述べてゐる。
 実際に楠公の「神霊」を祀る湊川神社の鎮座は、中世・近世を通して醸成された楠公景仰の念から発し、志士の思想と行動を生み出す原動力ともなった各地の楠公祭や楠公社といふ広汎な信仰に基づき、幕末に相次いだ、討幕派と公武合体派を問はぬ多様な担ひ手による楠社創建運動を前提とする。そして、慶応三年十二月九日の「王政復古の大号令」により維新成って間もない慶応四年(明治元年)四月二十一日、明治天皇が「楠贈正三位中将正成」に対し、「精忠節義、其の功烈、万世に輝き、真に千歳の一人臣子の亀鑑」として神号追諡と社壇造営の「御沙汰書」を賜ったことを以て湊川神社の創祀とする。同年五月二十五日には、京都の河東操練場にて神祇官員出張による楠公祭が斎行され、明治二年からは湊川で執行されることとなったが、同五年正月から造営工事が始まり、五月二十四日には「湊川神社」の社号を賜はって初の「別格官幣社」に列格されたのである。


 かつて、昭和四十三年の「湊川神社創祀御沙汰百年祭」を目前に書かれた本紙論説(三月二十三日付)では、「桜井の駅の父子の別れから湊川で七生報国を誓って、玉砕するにいたるまでの太平記、日本外史の所伝」は、「戦ひの勝敗も事の成否得失をも顧みないで、たゞ忠誠の一念に死することに徹しきった精神の所伝」であり、近代日本における「功利打算の時代風潮」のなかでも「楠公を国民最高の典型として仰ぐ精神史の伝統が厳存したことは、国民精神を低俗化から救ひ出す偉大な力」であったとして、とくに『日本外史』が描いた楠公父子訣別時の教訓「金剛山の旧址を守り、身を以て国に殉じ、死ありて他なかれ」こそが「湊川の精神」であることを強調してゐた。
 かかる「純忠」の「楠公精神史」を最重視した本紙の信念は、正しく当時の葦津珍彦神社新報社論説委員(同年三月末退社)の思想と同様のものであった。同年、湊川神社社務所発行の冊子『大楠公』に収録された葦津の「楠公論私説」では、「死ありて他なかれ」と期して散った楠氏一党のみならず、楠公を崇敬した明治維新から大東亜戦争に至るまでの有名、無名の忠霊をも念頭に置き、「湊川神社は、勝敗成否を第一義とせず、ただ忠誠のために、自らの生命も、功名も顧みないで、おのれを永遠に埋没して悔いぬ精神の結集するところ」と述べられてゐる。


 しかし、あたかも「役に立つか否か」といふ物差ししかないやうにも見える功利主義極まる現在、先の本紙のごとき言は理解されず、即座に「戦前回帰」などとがなり立て、一方的に負の烙印を押す向きもあるかもしれない。
 所伝による楠公像は、あらゆる欲望を捨て、綯ひ交ぜの虚無感や諦念をも超え「純忠」の「死」といふ決断に至った稀有の将である。功利主義と対極の「楠公精神」は後進が継承するか否かの問題であって、戦前も戦後もない。ただ、我々一人ひとりの生き方が問はれてゐるだけのことなのである。
平成三十年四月三十日

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