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杜に想ふ 謙虚さ 涼恵

平成30年06月04日付 5面

 私が知る限り、上に立つ人ほど、謙虚で自分に厳しい。神道人として、さり気なく自然に自分を律して、周囲に対しては思慮深いその姿勢からは、学ぶものが多い。
 例へば、ある神社から依頼を受けたコンサートの本番当日のこと。参道に宮司がいらしたので、御挨拶しようとした時、告知看板の向きが悪いから、もう少し参拝者に見やすいやうにと、宮司自らが看板を動かしてくださってゐた。ほんの数センチの違ひだが歴然と見やすくなった。さういふ細かいところにまで目が届き、誰かを使って指示をするのではなく、自分が率先して行動する姿勢に頭が下がった。
 また、ある懇親会に招かれて歌を歌った時のことである。出席者は会食をしながらとなるので、周りはどうしてもガヤガヤしてしまふ。さういふ場面はこちらとしても承知の上で、ある意味慣れてゐることなので、気にせずに自分のペースで歌ってゐたのだが、懇親会が終はった二次会の席で、ある神社の宮司が私のところに来てくださり、かう仰った。「貴女にお詫びをしなくてはならない。あのやうな席で歌はせてしまって申し訳なかった。また今度埋め合はせをしませう」。初対面だといふのに、開口一番で謝られてしまひ、私の方こそ申し訳ないといふ気持ちになった。と同時に、なんて偉ぶらない配慮のある方だらうと、そんな人物に自分も近付きたいと思はされた。
 自分を極める。上に立てば立つほど、そんな生き方しかできなくなるのかもしれない。教育勅語を己の日常の中で実践していらっしゃるのが、お¥外字(b222)ひしただけで伝はってくるやうだ。昨今では承認欲求や自己顕示慾が強い人が多いことも、一つの事実だと思ふ。だけれども、もっとその先その奥では、誰もが慎み深い自分と対面するのではないだらうか。
 目に見えぬ神にむかひてはぢざるは人の心のまことなりけり――祭祀舞「朝日舞」の歌詞にも使はれてゐる明治天皇御製。この舞は神職が舞ふ舞とされてをり、宮司によって舞はれることが多い。神職として、上に立つ者としての振舞ひを示されてゐるやうな気がしてならない。謙虚さは、きっと自分への厳しさがさうさせるのだらう。
 神前に手を合はせる時、自分が透けて、風景に溶けてゆくやうな感覚に陥る時がある。そんな時、とても近くに神様を感じる。存在が重なるといふのだらうか。自分といふ存在が、幾多もの年月と数多もの命が重なり築かれてきたのが伝はってくる。
 誰かに認められたいとか、誰かと比べて一番になりたいとかではなく、自分が自分に答へを出してやれば良いのだらう。
 心もある意味、芸術作品と同じ。これで完成と思へば、そこで終はってしまふ。自分の心をどれだけ細かく仕立ててゆけるか。まだまだ至らない自分が恥づかしい。
(歌手、兵庫・小野八幡神社権禰宜)

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