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杜に想ふ かをりの記憶 涼恵

平成30年09月03日付 5面

 かをりの数だけ物語がある。さう感じさせられる出来事があった。
 やむを得ない事情で、神社境内の樹木を伐採しなくてはならない。でも、できうる限りその存在を残したい……。そこで御用材として再利用するのはもちろんのことながら、精油や蒸溜水にするのはどうかとの御提案をいただいた。このたび御縁あって実践してみたところ、これがすこぶる記憶に訴へかけてくるとても良い策で、思ひ出を香りに籠めることができたと実感してゐる。
 調香師の方の言葉が印象的だった。「香りは、言葉にできない想ひを伝へるアイテムに、また“自分”を表現する手段にもなります。香りは記憶や感情と結びつき、記憶や感情は、物・場所・人……いろいろなことへ繫がってゆくのです」。
 香りが放つ情報は単一ではない。複合的にそれぞれの要素が重なって、思ひ出や場所を表現することができる。例へば神社の香り。神社で育った私には、神社ならではのにほひといふものが無意識のうちに存在し、あの木と日本酒と神饌の乾物と装束と季節の風とが混ざった……なんとも言へない神社独得のにほひが記憶と結びつく。きっと読者の皆様のなかにも私と共通する香りを抱かれる方がをられるのではないだらうか。
 お母さんのかをり、故郷のかをり、昔好きだった人のかをり、季節のかをり……。きっとそれぞれの人生の中でかをりの記憶があるだらう。どこか懐かしくて、切ない。時が経てば、いつかは消えてしまふほどに微かで儚い存在。だからこそ、記憶の深いところへと気付かないうちに沈んでゐる。無意識に滲透してゐる。嗅覚は五感のなかでもとくに人間の記憶と強い繫がりを持つのだらう。
 脳の構造をみれば、映像より、音より、感触より、味より、昔の記憶を呼び起こすものは匂ひ。海馬と呼ばれる脳の器官は記憶をつかさどるとされるが、五感のなかで、嗅覚だけが、この海馬のある大脳辺縁系に直接情報を送ることができる仕組みなのだといふ。
 妊娠中の女性の嗅覚がとくに鋭くなるのも本能が剝き出しになるからなのか。また、御承知の通りクスノキから水蒸気蒸溜により結晶化される樟脳は、西洋では気つけ薬として使はれてゐたといふ。脳といふ文字が用ゐられてゐることも興味深い。
 最近では柔軟剤の匂ひが強いなど、香害といふ言葉まであるくらゐ化学的に作られた匂ひが蔓延してゐる。喘息持ちの私にはそんな環境が息苦しい。かをりは人の感性を鋭くもすれば鈍くもしてしまふ。
 たまには思ひ切り、自分の中にある大切な記憶や感性を埋もれさせてしまはぬやうに、すべての感覚のすみずみにまでかをりをゆき亙らせるやうに、大きく深く息を吸って身体をかをりで満たしてあげるのも良いかもしれない。
(歌手、兵庫・小野八幡神社権禰宜)

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