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論説 七五三から迎春準備へ 祭祀と祈りの本意を伝へる

平成30年10月29日付 2面

 十月も半ばを過ぎると、神社境内では七五三詣の風景を見かけるやうになり、その晴れ着姿に秋の深まりを一段と感じるやうになる。各神社では七五三詣に続いて年末恒例のお神札の頒布があり、それと併行して新春を迎へる準備が進められていく。
 さうしたなかで、マスコミ等では正月の初詣に向けた各種報道が見られるやうになってくる。干支の「猪」に因んだ縁起物の奉製風景に始まり、さらに神社での頒布品の準備や大掃除の映像など、歳末に相応しい光景が各種媒体を通じて報道されていくであらう。そのやうな報道とともに、初詣にあたっての社寺紹介のやうな記事が多く見られるやうにもなる。初詣参拝者数が多い著名な社寺を紹介するとともに、近年話題となってゐる「インスタ映え」するやうな箇所を紹介するもの、また少し首を傾げてしまふやうな「スピリチュアル」なもの、何か商売と連動してゐる様子が垣間見えるものまで、毎年さまざまな情報が提供される。時代の流れも感じられる初詣についての報道に、少しく注目してみたい。



 初詣は、大晦日の夜から元日の朝にかけて氏神神社に籠る年籠りに起源があるとされ、元日の氏神神社参拝、また恵方の社寺への参詣などが融合し、新春の行事として定着していった。加へて交通機関の発達により、遠方へも初詣がおこなはれるやうになったとされる。現在でも大晦日から元日にかけて、有名社寺に向かふ路線では臨時便が運行され、また終夜運転をおこなふ鉄道路線も数多くある。
 さうした流れの中で参拝者を迎へる側の社寺も、神符守札に加へて正月らしさを持った縁起物を頒布品として準備し、また境内諸施設も正月飾りを施すとともに、多くの参拝者に対応できるやう設へを改め、迎春準備をおこなふこととなる。
 この新春を迎へる準備は決して多くの初詣参拝者を迎へる神社だけでなく、普段は無人の神社などでも氏子等の奉仕によって進められる。その地域の伝統に基づき、歴史に育まれた新春行事をおこなふべく態勢が整へられ、一年の幸を祈ることとなるのである。



 しかしながら、先に述べた「インスタ映え」「スピリチュアル」「商売との連動」に関はるやうな事例のなかには、果たしてこれが神社にとって相応しいのかといふ内容も見られることがある。神社への関心を高めるために、かうした情報が提供されることは一概に否定されるものではない。だが先に述べたやうに地域の伝統と歴史に副ひ、神社の本意を伝へる内容であればよいが、さうとはいへないものならば、その結果として一時的な神社の興隆を見ることはあっても、いづれ、その矛盾点から神社への不信の念さへ沸き上がる虞がある。さうした不信感は、当該神社だけでなく神社界全体への不信感となることも予想されるだらう。
 神社の健全な運営のためには、当然経済的な充実が必要である。「清く正しく」といふ考へから、金銭的なことを俗なる部分として嫌ふ面もあるが、円滑な運営のためには、どうしても経済的なことも考慮せざるを得ない。しかしその俗なる部分だけに重点を置き、聖なる部分を軽視することがあれば、その活動は不適切な内容となるだらう。



 聖なる部分とは祭祀や祈りに関はることで、それは歴史と伝統に裏付けされ、地域や集団によって護持されてきたものである。信仰の世界において「俗なる活動」は、「聖なる活動」を支へるためにおこなふものであるが、ともすれば「俗なる活動」が目的化してしまふ面が見られる。すなはち祭祀や祈りの本質を伝へるべくおこなふのではなく、経済的な社頭隆昌のみを目指してしまふことだが、これは厳に慎みたい。
 初詣といふ多くの人々を迎へる時期にあたり、神社関係者は創意工夫を凝らして準備を進めるが、そこに求められるのは本意を伝へるためのものであることを今一度心掛けてほしい。加へてマスコミ等の取材を受けるとき、神社が意図する目的を適切に伝へてゐるか、また安易な情報提供により誤解を招くことがないか、とくに注意してほしい。社頭の一時的な興隆を図るための行為が誤解を招くやうなものであり、不審を抱かせるやうな事態に至れば、それは神威を汚すものであるといふことを強く訴へたい。

平成三十年十月二十九日

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