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杜に想ふ 孤独の先に 涼恵

平成31年01月01日付 11面

 繋がりたい症候群。最近こんな言葉を耳にした。不思議な言葉だと思ふ。現代人には孤独を愛する時間がもっとあっても良いのではないだらうか。「寂しい」とか「一人になりたくない」とかいった表面的な感情ではなく、もっと本質的な自分と向き合へる時間。
 孤独を深く感じれば感じるほど、内なる命の存在に出逢ふ。自分の鼓動を鳴らしてゐるのは誰か――この命を授けてくださった父母と、毎日毎日、脈打つこの身体を生かしてくださる神祕の存在とがあるからこそ、今この瞬間も生きてゐられる。そんな意識に集中すると、少し大袈裟な表現かもしれないが、自分の存在が透明になり、過去・現在・未来と受け継がれる命と重なって感じる。本当の孤独とは、とても無色透明なものかもしれない。
 静の中に生を感ずる。動の中に熱を感ずる。
 ひとりを知ることで、ひとりではないことを知る。
 こんな時間を圧倒的に感じられる行法が「鎮魂」だと思ふ。御神前に向かって振魂をしてゐると、己の存在がはっきりと浮かび上がり、その先に、理窟なく、そして果てしなく連綿と受け継がれてきた生命の塊に触れる。身体が熱くなる。時が止まったやうな、いや急速に流れたやうな、どちらでもあって、どちらでもない不思議な時間軸に身を投じる。息の技。呼吸法は生きる原点。「息る」こと――初めてその道理を教はった時には鳥肌が立った。古の日本人の在り方とは、普遍的である。今の時代だからこそ、学び活かせる生き方がある。
 そこに意識を向けると、日々を「ネット」や「SNS」の時間で埋めてしまふのが、ただただもったいない。孤独を埋めてゐるやうで、実は深めてしまってゐるのではないだらうか。便利さと危ふさが同居してゐる。時には孤独を選び、己の本能を包み込めるのは、結局は自分自身だけなのだと私は感じてゐる。母親でも人生の伴侶でもなく。
 日頃いかに独りで考へてゐるかによって、実際に人と対面した時に話す内容が深いところで混じり合ってゆく。親和欲求は、心の向け方によって満たされることも涸渇することもある。優しさや慈愛を生むことにもなれば、寂しさや虚しさを生むことにもなり得る。
 一方で御高齢の方の独り暮らしが多いといふ現実にも、目を向けなければならないだらう。孤独と孤立は違ふ。世代間交流も含めて、地域社会の寄り合ひの場としての性格が神社から薄れてきてしまったことにも、多少の影響と責任とがあるのかもしれない。
 来るべき高齢化社会に向けて、またネット世代の若者たちに向けて、神社界が担ひ得る役割とは――。共同体に生きるなかでの務めが浮き彫りになるのは、自らの孤独と向き合った先にあるのではないだらうか。
 年頭にあたり皆様の弥栄を心よりお祈り申し上げます。
(歌手、兵庫・小野八幡神社権禰宜)

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