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杜に想ふ 涼恵 曇りなき鏡のやうに

平成31年02月04日付 5面

 人はそれぞれ与へられた環境の中で、その場に応じた自分を演じて対応してゐるところがないだらうか。人によって態度がコロコロ変はってしまふ。ある人の前では素直なのに、ある人の前では無口になってしまふ……そんな人が周りにゐないだらうか。私は学生時代そんな傾向があった。だから、人によって自分の性格の印象がまったく異なる。大人しい人だね。活溌な人だね。
 本当の自分はかうぢゃないとか、本当の自分って何だらう……と思春期には摸索しては街中を彷徨った。個人的な話で恐縮だが、私の場合は甘えと怖れが原因して、家庭や学校は本来の自分を表現しにくい場所だった。感傷的、わがまま、癇癪持ち、さぼりや。一度そんな印象を与へてしまふとそこから抜け出せずに萎縮してゆく。それが神職になり、神明奉仕をするたびに、自然体に還ることができたと実感してゐる。
 人は誰しもが時と場合とによって、いくつかの顔を演じ分けてゐる。ユングが提唱したペルソナといふ概念。仮面を意味するラテン語に由来してをり、社会に適応するために身につけた表面的な人格や個性を表す。家の外と中での仮面はきっとまた異なる。人は本音と建前を使ひ分けてゐることが多いもの。心理学的にみるとそれは、自分を防衛・保護するためなのだといふ。
 和御魂と荒御魂。二つのお御魂をそれぞれにお祀りする神道の精神に懐の深さを感じて已まない。例へばこの二つの側面を表と裏で現すとどうだらうか。表向きは和やかでも裏では荒ぶる心を祕めてゐる。その逆もまたしかり。表向きは荒ぶる気質でもその心根は和やかである。きっとどちらも真実で人間味に溢れてゐる。「お父さんが会社で、こんなに人を束ねる仕事をしてゐたなんて知らなかった」「家ではお母さんの尻に敷かれてゐるのに」なんて話もよくあるだらう。社会に対応してゐるほうが、より良い自分の在り方を摸索して向上してゆけるものかもしれない。
 神職はどうだらう。外へ出ると「先生」と言はれる機会も多いのではないだらうか。誰かに偉ぶることなく、誰に対しても等しく振舞へたらと自分に言ひ聞かせる。と同時に「自分が相手にどう見られるか」を考へるよりも、「相手にとって自分が、本来の姿を自然に出せる相手で在りたい」と願ってゐる。きっと人は神様と向き合ってゐる時が本来の自分の姿だから。
 人は自分を映す鏡。三種の神器の一つが鏡といふのは、己と相手との反映といふ意味もどこかにあるのかもしれない。鏡から我をなくすと神になるのだと先輩神職さんから教はった。日々さまざまなことが絶え間なく起こりゆくけれど、お参りに来られた方の心が清々しくあれるやうに、仲執持として、まづは自分の心を少しでも曇りなく清らかに保てるやうに心掛けてゐたい。
(歌手、兵庫・小野八幡神社権禰宜)

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