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杜に想ふ 甘くないのがお好き? 植戸万典

平成31年02月11日付 5面

 世界は誰かの仕事でできてゐる。缶コーヒー会社の回し者ではないが、胸のすくコピーだ。もっとも、世界を動かしてゐるのは政治家ではなく通訳だ、といふ諧謔を耳にしたときの痛快さも、これに比肩すると思ふ。
 文筆業のやうな水物商売もだが、縁の下で高い技能を求められる職も正当な評価が得られ難い。知人の翻訳家に聞いても、政治や軍事、医療、宗教などの専門分野の通訳ともなればとても信じられない苦労話が次々と出てくるが、顧みられることは殆どないらしい。成果までの背景が見えづらい職業は、一種のブラックボックスなのだ。この原稿の校正もさうでせう、いつもお世話になってをります。
 ブラック繋がりで言へば、新語・流行語とされた「ブラック企業」といふ言葉も、今や随分と市民権を得た。劣悪な、時に違法な労働環境を強ひる様を「ブラック」と端的に表現したところに、本来は残念なことだが、世の労働者の共感を得る妙味があったのだらう。
 とはいへ、世の中が理不尽なのは昔から変はりはしない。例へば平安初期の貴族・小野篁は、才走った人物として有名だが、彼もパワーハラスメントの被害者だった。
 仁明帝の御代、遣唐副使に任ぜられた小野篁だが、大使が乗る予定の船が損傷により漏水したため、彼の乗る船と取り換へられてしまった。遣唐使船は「四つの船」とも言はれたとほり使節の四等官が分乗したが、そこにはどうやらリスク分散の意味もあった。当時の外洋航海は遭難も珍しくない。ただでさへ危険な唐への航路、明らかに危ない船を押し付けられた篁卿は朝廷へ抗議のうへ乗船拒否し、免官流罪に処せられる。さながら「ブラック朝廷」とでも言はうか。軍人のやうに極論死すら命ぜられ得る役目でもなし、部下も率ゐてゐた卿の反撥は至極当然だらう。
 しかしそこは無双の才人、その能力が惜しまれ二年後には赦された。篁卿は夜に閻魔王にも仕へたと噂されたが、その本務は晩年まで閻魔庁に移されることなく、最後は参議として朝政に与る。
 篁卿はいささか特殊だが、現代でもさうしたブラックな環境が少なくない人を病ませてゐることは確かだ。マネジメントの問題でもあるが、なかなか解決の難しい日本の宿痾だ。
 ただ、非難されるべき第一は組織の長であることに違ひないが、一方で我々も消費者の立場で「お客様」となり、相手にブラックな会社体質となることを強ひてはゐまいか、自省も大切だらう。無理難題でもプロならできて当然だと要求する様は見るに堪へない。それこそ通訳に限らず、校正に限らず、内実を知らないなりにプロフェッショナルへの敬意は欠きたくない。
 いづれにせよ、ブラックはコーヒーくらゐで願ひたいものだ。
(ライター・史学徒)

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