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杜に想ふ 御即位を奉祝しませう 植戸万典

令和元年05月20日付 5面

 新帝陛下が践極された。賀詞は諸兄に譲り、吾人は宝祚の隆えまさむ国でその歴史を学び得た天恩に奉謝したい。譲国に際会しようとは、院生時分には想像もしてゐなかった。
 同時に、陛下のやうな一線の歴史家となるべき素質もなかった。子供の頃から、勉強しませう、と云はれて素直に机に向かふ可愛げもなかったのだ。その帰結が今である。そしてやはり三つ子の魂は百までなのか、お神札を祀りませう、氏神様に参りませう、国旗を掲げませう等々、「しませう」と誘はれたところで捻くれて考へる性癖は今も変はらない。
 納税しませう、働きませう、選挙に行きませう。かうした優等生な標語は珍しくない。しかしわが身を顧みてどうか。結局は確定申告し、仕事は最善を尽くし、今夏も炎天下に票を投ずるにせよ、かと云って積極的に税を負ひたいわけもなく、可能なら不労所得で趣味に生きたいし、己が為とはいへまだ花粉の残る中を投票所まで赴くのは億劫だった。これは決してひとりだけの怠惰心ではないと信じてゐる。
 価値観も多様な現代、当然ながら神棚奉斎も神社参拝も国旗掲揚も「義務」でない。それを「しませう」だけで、無関心な人にも自発的に行動させられるだらうか。
 アピールの目的化した一方通行な言葉は琴線に触れない。伝へる相手を想はなければ虚空に呟いてゐるだけだ。「神社新報を読みませう」では買ふ気が起きなくても、「読みませんか」なら多少検討の余地も生まれる。「神社界の今がわかる」と云はれれば読みたくなる人も増えよう。内輪に見ても、「植戸万典のコラムが読めるのは神社新報だけ!」よりは購読数に響くはずだ。
 世間ではまた落語ブームとも聞くが、大切な日本の文化だから寄席に行きませう、と広告して人気が出たのではないことくらゐ与太郎でもわかる。馴染みの落語好きだけ相手にしてゆくならそれでも良かったのだらうし、もちろん古参のファンも大事にされてゐるが、その中で界隈の努力や、漫画やドラマが広く訴求したことも奏功して、また新たな層が噺を楽しむやうになったのだ。
 斯界も、既存の崇敬者とファンだけを対象にしてゆく社寺なら、「しませう」のままで良いのだらう。ただ、JR東海が「新幹線に乗りましょう」ではなく「そうだ京都、行こう。」で四半世紀も愛されてきたことは心に留めたい。なにも凝った宣伝文句を唱へるべしといふことでもない。伝へ方次第で「しませう」が相応しい場合もある。
 さて、この御大礼の秋、巷間ではどのやうな標語があがるのか。奉祝気運の醸成と云へばそれらしいが、恋闕の徒の間で盛り上がるだけで終へたくはない。
 御大礼は一世一度。さぁ、日の丸の御用意は宜しいですか?
(ライター・史学徒)

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