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杜に想ふ 畏れ敬ふ 涼恵

令和元年06月03日付 5面

 いつからだらう。近頃、神といふ言葉が乱用されてゐる気がしてならない。皆さんはこんな言葉を耳にしたことはないだらうか、「神対応」「もはや、神」「神レベル」「神ってる」「ネ申す」どれも最上級の褒め言葉として用ゐられてゐるやうだが、どこか安易な印象を受けてしまふ。最後に挙げた「ネ申」とはネット用語で「倍角文字」といって、パソコン上で一つの漢字を横書き二つの文字で表すことで、強調したい言葉を大きくする。
 柔軟に捉へれば、特段悪い傾向とは言へないのかもしれない。神様を日常的に感じることが、言葉に表れただけだと明るく捉へたい気もする。ただ、かういふ物言ひも含めて、一つの傾向として我々現代人は、気が付かないうちに、目上の者への尊敬を欠いてしまってゐたり、いささか傲慢になったりしてはゐないだらうか。
 畏れ敬ふ――。これは人為的な感情ではないのだらう。対象があって自づから湧き出てくる感覚。神とは上と同音。自分よりも上に存在する対象に意識を向けることは、自分を明らかに高めてくれる。まだまだ至らない己を知り、学ぶ姿勢が前に出てくる。
 畏れ敬ふ感覚は、誰から教はるものでもなく、自づから、心の中から育まれる畏敬の念。私の場合、神社で育ってきたことで、自然と感じ取ることができたのかもしれない。父が御神前に手を合はせる時、母が炊きたての御飯を神棚にお供へする背中、一人窓辺で考へ込んでゐるとスーッと差し込んでくる光、何度となく見上げた境内の木々、そんな日常が教へてくれた。
 個人的な体験談だが、中学生の初めの頃、アメリカ人のクリスチャンと話す機会があった。ふと彼がかう言ったのだ。「神様は友達だ」と。その表現は衝撃的だった。新鮮にも感じたが、同時にどこか烏滸がましいやうな、妙な感覚を抱いた。高校時代には同級生が「私はママと仲が良くてまるで親友みたいなの」と言ったことに驚いた。私は母のことを友達のやうに感じたことは一度もなく、どうもイメージが湧かなかった。
 また親しい友人であるカトリック神父は、こんな話をしてくれた。「神様の存在は天上高くて我々には届かない存在。だからこそジーザスをこの世に送ってくださったのだ」。
 神様との距離は人それぞれ感じ方に違ひがあるのだらう。近くても遠くても、それは本人にしか分からないもの。
 「恐れ入ります」。私はこの言葉が好きだ。本来、日本人は相手を立て、自分を一歩引いた距離で物事を捉へる感覚に長けてゐた民族ではないだらうか。
 信仰は、位や高低では表現仕切れるものではないが、見上げる、首を垂れる、といった仕草にも、立体的な縦の軸があるやうに感じられる。横一本で階層のない平等な感覚も大事だが、慎みや敬ひも大切にしたい。
(歌手、兵庫・小野八幡神社権禰宜)

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