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杜に想ふ 恩返し 八代 司

令和元年06月10日付 4面

 劇作家の長谷川伸の名作「一本刀土俵入り」は新劇や歌舞伎の舞台、また歌謡曲としても知られてゐる。そのあらすぢは、横綱を夢見る取的・駒形茂兵衛の酌婦お蔦への御恩返しの人情話で、これまで銀座の歌舞伎座ではもとより、さまざまな役者の好演を観ることができた。「恩に報いる」との人情味深い内容と名優の演技に何度も涙したが、とりわけ、忘れられない舞台がある。それはちゃうど五年前の六月、当代の歌舞伎俳優である市川猿之助丈と市川中車丈の襲名披露としておこなはれた富山県での巡業公演。富山駅前の大ホールでの公演は、ドラマでも有名となった猿之助丈と、歌舞伎役者の血を受け継ぐ者としての決意で遅ればせながらも歌舞伎界に入った俳優・香川照之氏の舞台を一目生で観ようと、多くの方が芝居見物に訪れてゐた。
 地方巡業の場合、歌舞伎を観たことのない方々が観客に多く、開場前の賑はふロビーや劇場内の雰囲気からもそれは容易に推測することができた。いよいよ幕が開き序幕の舞台が進む中、二人のやり取りで、茂兵衛がお蔦に出身地を訊ねると、お蔦はしなだれた中にも遠い故郷の母を思って「越中の八尾」と答へる場面がある。ここは舞台である常陸の国の取手宿からは、信濃の善光寺よりももっと先にある越中の国を、彼女のこれまでの人生の歩みとともに遙かに想はせるところ。実は後半になって「越中」にまつはることがキーワードとなる、言はば見せ場の一つで、台詞回しの重要な一語なのである。ところが、この「越中」との台詞に、これまでの各地の公演では想像になかったがことが起こった。それは、御観劇の多くがまさに越中、現在の富山県民の方々だったため、この台詞をお蔦が「御当地サービス」として言ったと想ったのか、劇場内にはなんと笑ひ声が沸き起こったのである。その後に進行した舞台は熱演と物語本来の深みで拍手の中に幕を閉ぢたが、せっかく所縁の御当地で演じた物語の深さを逸失してしまったのは極めて残念であった。
 さて話は変はるが、大相撲の夏場所はその富山県出身の朝乃山関が平幕で優勝。同県出身力士としては横綱太刀山以来、実に百三年ぶりの快挙とのこと。折しも国賓として来日中の米国大統領杯の授与では「レイワ・ワン」と読み上げられた。これは幕末の黒船来航時に日本人の隠れた剛腕を示すべく米俵を担ぐ力士を披露した時以来の「相撲世界史」の一ページともなったことであらう。その朝乃山関は優勝が決まった際、写真には鯛ではなく郷土名産の出世魚の鰤を手に写りたいと語り、またこの優勝を誰に伝へたいかとのインタビューには「先生」と、先年、若くして亡くなった高校時代の相撲部の恩師を挙げ、また凱旋の帰郷は「墓参り」のためと応へる姿が印象的で、さらには帰郷したら「富山の水を飲みたい」との一言も。郷土愛と師への恩をしっかり持つ若き力士の誕生に言ひ知れぬ嬉しさを感じ、故郷の水を力水にさらなる活躍を祈りたい。(まちづくりアドヴァイザー)

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