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杜に想ふ 修錬のほど 神崎宣武

令和元年08月26日付 6面

 七月半ばの京都、一年ぶりでS君に会った。
 S君は文化人類学者で、広義には私と御同業である。年齢は、私より少し若い。
 業績は、誰もが認めるところだ。後輩のなかではもっとも頼りがひがあって、私もひとつのプロジェクトを彼に託さうとしてゐた。
 しかし彼は、五年ほど前に緑内障を患ひ、視力を急速に弱めてしまった。このごろでは一人歩きもおぼつかなくなってゐる。そのときも、息子さんが付いてきた。
 「なじみのない会場に行くのが、億劫になった。ドアや階段は見当がつくとしても、トイレのボタンの位置や食堂での食器の向きがすぐにはわからないときがある」
 下手ななぐさめは通じないところで、私は「梅棹先生もさうだったね」、といった。
 梅棹忠夫先生(大正九年~平成二十二年)は、民族学・文化人類学の牽引者で、国立民族学博物館の初代館長を経て、文化勲章も受章されてゐる。S君も私も、先生から多くを学んだ。その梅棹先生が、晩年、失明された。
 あるとき、ポツリとおっしゃった。「ホテルでの蛇口がまちまちなので、冷水が出たり熱湯が出たり」と。そのところで、日本の公共施設は、身体が不自由な人にやさしくはないのだ、と教へられたものだ。
 「視力が弱ってから、あらためて感じることがある。忘れてゐた聴き分ける感性、それに敏感になったやうに思ふ」
 S君が、さういった。たとへば、神社や仏寺に参ったとき、神職や僧侶の修錬と気合のほどがわかりだした、といふのだ。それまでS君は、およそ神仏を拝する行動様式をもってゐなかった。それが、近ごろは、寺社詣でが楽しみだ、といふのである。
 「たとへば、仏教での声明。聴く機会は少ないが、あれはええもんですな」
 私も、さう思ふ。といふのは、ちゃうど十三年前にパリのシテ・ド・ラ・ミュージック(国立音楽院)で日本の伝統芸能を二日間公演する催事があって、私がコーディネーターを担当した。そのひとつの演目が声明であった。醍醐派の若手僧侶が約二十人。はじめてのおつきあひであった。余談になるが、彼らは、前日のリハーサルでは銘々の行動を優先して全員が揃はず、私は、どうなることかとやきもきしたものだ。それが、本番では一糸乱れぬみごとなできばえであった。S君がいふところの、ふだんの修錬のたまものであらう。
 そのとき、私は思った。私たち神職も、たとへば大祓の詞を何人であってもきちっと合はせて唱へられたらよいのに、と。以来、私の本務社では、私の太鼓に合はせて祭員と氏子総代が大祓詞をあげることにしてゐる。しかし、年に五回ほどの祭典でのこと。声明の域には、とても及ばない。
 「さうだ、神崎さんの神社に行きますからね。神崎さんの神懸かった胆力がどんなものか、これは楽しみだなあ」
 S君の声がをどったものである。
(民俗学者、岡山・宇佐八幡神社宮司)

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