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杜に想ふ 瀬戸際の感覚 涼恵

令和元年09月09日付 5面

 人はそれぞれ瀬戸際の感覚といふものを心に宿してゐるのではないだらうか。
 境界線。これ以上越えてしまふともう別の世界。境地に立たされたとき、自分が何を選択するかで居場所は変はる。
 私は恥づかしながら、不謹慎にも神様なんてゐないかもしれないと思ってしまったことが一度だけある。今まで築いてきた繋がりが断たれたやうに感じられ、結局は自分の力だけで切り拓いてゆくしかないのだと思ひ込んだ。去る人ばかりが目立ち、どんどん孤独になる気がした。
 氏子崇敬者のなかにも、神様との結び付きを信じることが困難で、何か現実的な見返りがないと、継続して神社との関はりを持ちたがらない人もゐる。祈ることで現実的な事象にどう変化があるのか実証しろと言はれたことがあるのだが、たとひどんなに小さいことでも感謝をして「あぁ、これは神様のお蔭様」と、とるか、「自分の力だ」と、とるか。結局は自分がどう捉へるか。極まった感覚で瀬戸際の状況もその瞬間の選択で大きく変はる。
 不平不満、小言や愚痴を零してしまふ時、人は誰かや何かのせゐにして己に答へを見出せずにゐる。吐き出すこともたまには必要だけれど、そこにもギリギリの感覚があって、これ以上言ふと悪口になる、口が穢れる、といった境界線が敏感に存在してゐるやうに感じる。
 神道が示す世界は、混沌としながらもバランス良く構成されてゐるやうに見える。出すところと隠すところ、光と闇、聖と俗、あらゆる領域のなかで均衡を取りながら存在を認めてゐる。鳥居も手水舎も直会も、それぞれの領域を境にするものでもあって、結ぶものともいへさうだ。綺麗事ではなくて、この世のなかは美しいもので溢れてゐる。朝露、陽の光、虫の羽音、吹き抜ける風、流れゆく白い雲、涙……。挙げ列ねたら、キリがないほど浮かび上がる。でも反対に、心が翳ってしまふとそのどれもが目に映らない、聴こえない、感じない。それはいつでも自分が選択してゐる。己次第なのだ。どう生きたいか。
 かういった話を書き進めると、いつも母の教へが頭をよぎる。「大人になると、誰しも子供の心を持ったままでは生きられないの。でも子供の心や気持ちがわかる大人にはなれる。大人ってなかなか良いものよ」。母はチャームポイントの片ゑくぼをへこませながら、少女のやうに笑った。
 確かに大人になると、子供の頃には感じなかった生き辛さを抱へることがある。毎日目まぐるしく、人とのお付き合ひを通して、学びも負荷もどちらもある。神様は恵みだけでなく試煉も同時にお与へになると。
 いっぱい感じて、笑って泣いて、孤独を知り他者を知る。そこを越えた先に、ただ天地の神々との結び付きを強く信じることができるのだらう。
(歌手、兵庫・小野八幡神社権禰宜)

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