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杜に想ふ 「空気」の子 植戸万典

令和元年09月23日付 5面

 山本七平の先駆的著作に『「空気」の研究』がある。戦艦大和の沖縄出撃などから「場の空気」を考察したもので、山本日本論では『日本人とユダヤ人』(イザヤ・ベンダサン著)と並ぶ代表作だ。「KY」が「空気が読めない」の略として流行したのは一昔前だが、最近も「忖度」やら何やら、上から下まで本邦は古今「空気」に支配されてきた。
 学術的にはドイツでも既に「沈黙の螺旋」理論が提唱されてゐたやうに、「空気」的現象には普遍性がある。ただ輸入概念の「社会」より「世間」が根強い日本では、「KY」からも窺はれるとほり寧ろその支配が肯定されてきた。日本語の「社会」はソサエティーの訳として、北宋の儒書『近思録』に見える「郷民為社会」などから福地桜痴が用ゐて以降定着したものであり、別に「神社で会ふ」ことではない。
 東日本大震災の折も、非常時でも秩序正しい日本人の行動が世界で称讚されたと一部の層は御満悦だったが、関東大震災を鑑にシニカルに見れば、善し悪しは兎も角「空気」に従っただけだと解る。しかし「空気」は当事者にも認識し辛い代物で、記録にも顕れ難く、個人的にも院生時分から専攻の研究に取り入れようと思ひつつ史料の制約もあって虚しく年月を経てしまった。
 見難いからこそ人はバロメーターを欲する。本来バロメーターとは気圧計や晴雨計のことだが、日本ではそれよりも、不可視の物事の状態を推測する目安となるものを指すことが多い。空気の重さを量り、気象の変化を読む器械が、「空気」に支配され、「空気」の同調圧力で風向きの決まるこの国では指標を表すといふのも皮肉だ。
 斯界はその「空気」をどう馭してゐるだらう。本庁憲章に、神職は「社会の師表」たれとある。「師表」とは世の範となる人、それは「空気」をも超克し得る人のはずだが、神職と雖も神ならぬ身、一朝一夕にさうなるのも難しい。己を含めて誰も彼も均せば概ね普通の庶民で、現実は寧ろ「社会の指標」だ。その意味では、神社界はプリンシプルのない日本といふ社会の「空気」の申し子なのかもしれない。かうしたKY発言が編輯部にも迷惑をかけるのだが、それもこれも山本七平曰ふところの「水を差す」だと強弁して理解戴かう。改憲にせよ奉祝にせよ気運醸成の得意な斯界だが、その気運はいつ海軍も抗ひ切れなかった「空気」に変じ、我々を支配するかわからない。
 さう云へば、気のおけない伴侶のことも「空気みたいな」と喩へる。普段意識しないが大切な存在といふ意味であらうが、もし我を支配する存在といふ意味だとしても、なんとか心と秋の空の俚諺からして、いづれその空の色を知るバロメーターの方が、社会の指標なんぞよりも庶民にはよっぽど重要に違ひない。
(ライター・史学徒)

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