文字サイズ 大小

杜に想ふ マメ 神崎宣武

令和元年10月21日付 5面

 友人の桂文我さん(落語家)が企画した「マメと落語の競演会」(九月二十日、紀尾井ホール)で小講演をおこなった。その後、今年創業八十周年の名古屋「豆福」会長・福谷正男さんを交へ、文我さんと三人の鼎談をおこなった。話題は、もちろんマメ(豆)である。
 マメは、五穀のうちのひとつである。が、一般にはそれがほとんど認識されてゐない。ただ、「五穀豊穣」と唱へてゐるに過ぎないやうに思へる。五穀の起源は、『古事記』にもでてくる。速須佐之男命に殺された大気都比売神の頭から蠶、目から稲種、耳から粟、鼻から小豆、陰から麦、尻から大豆が生じた、とある。さやうに、マメは、穀物としての起源が古い、と読んでおかう。にもかかはらず、コメ(米)ほどに重視されないのは、なぜなのか。
 ひとつには、江戸幕府において、石高や扶持米に代表されるごとく、コメ本位が定められたからだらう。また、ひとつには、明治政府(式部寮達)によって神社祭式の統一がはかられ、神饌で荒稲・和稲(玄米・白米)が優先されることになったからだらう。
 かくして、行事に関係しては、節分の豆撒きが広まり伝はることになった。豆撒きとはいふが、本来は「豆打ち」。豆を礫に見立てて、鬼を打つ。この場合の鬼は、邪気悪霊。季節の変はり目に外から入り込む災ひを打ち払はんとするのである。したがって、その掛け声も「鬼は外」に意味がある。
 季節の変はり目でも、なぜ立春前の節分にかぎっての行事なのか。それは、古代中国での追儺行事が宮廷に伝はったころの設定だらう、とみる。宮廷行事が室町幕府や江戸幕府に伝はり、やがて庶民社会にも伝はった、といふのが通説となってゐる。
 私のフィールドワークのなかでもっとも印象的だったのは、栃木県下でのそれである。戸主が枡に入れたマメを持って氏神神社に参る。神前に三度マメを撒く。そして、東・南・西・北に向かってマメを打つ。掛け声は、「鬼は外」だけであった。
 そこで、シモツカレといふ行事食にも出くはした。神棚に供へたもうひとつの枡のマメを大鍋で煮る。正月に食べた新巻鮭の頭を叩いて砕き、それを入れる。さらにダイコンとニンジンを加へ、酒粕で味をつける。豆料理としては、特異である。が、他に節分の料理例は少ないので、貴重な伝承事例といへる。
 五穀のひとつ、マメ(この場合は、大豆)にもしかるべき呪力が認められてゐる、といってもよいではないか。
 「まめに過ごす」とか「まめまめしく働く」などの言葉もマメと関係がある、ととらへられがちである。だが、マメとの関係は薄い。たとへば、『広辞苑』では、「忠実」といふ文字を当ててゐるだけ。ただ、そのことにはふれなかった。落語のなかで、それらしくまめな男がとりあげられてゐたからだ。「おあとがよろしいやうで」と、聞き流すことにした。
(民俗学者、岡山・宇佐八幡神社宮司)

オピニオン 一覧

>>> カテゴリー記事一覧