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論説 「我が事」としての靖國神社 百五十年記念大祭

令和元年10月28日付 2面

 靖國神社では、十月十七日から二十日にかけて、秋季例大祭並びに御創立百五十年記念大祭が斎行された。
 ただ、直近の報道では、秋季例大祭に際し安倍晋三首相が参拝を見送り真榊を奉納したことや閣僚の参拝のことばかり言及され、記念大祭について触れられることはなかったやうである。それどころか「靖国神社参拝 閣僚は自重すべきだ」(朝日、十月十九日付朝刊)といふ手垢が付いた内容の社説を飽きもせず掲載する向きもあった。
 かつて本紙(昭和四十五年一月五日号)に寄稿した仏文学者の故・村松嘉津女史は、「靖国神社がその御創立百年の記念大祭を行はれたことなど、一般新聞は全然無視したから、これを知る人は極めて少い」と慨歎し、持ち前の国際感覚から、当時、昭和天皇御親拝のことを大きく詳細に報じた『神社新報』のみによって「日本の社会事情の一斑を知る」と記したが、約半世紀経た現在も殆ど様相は変はってゐない。

 さて、靖國神社は、「人霊」を「神霊」へと昇華して祀る「人霊祭祀」神社の伝統と、楠公祭の系譜を引いた勤王の志士たちによる物故同志の慰霊・追悼・顕彰、さらにはその遺志継承の祈りや加護の願ひを籠めた「招魂祭」(神式慰霊祭)の営みとが、天皇の御稜威のもとで統合されていくといふ幕末維新期の劇的な展開を前史に持つ。
 そして「東京奠都」がなされ、戊辰の役が終熄して間もない明治二年六月二十九日(旧暦)、九段坂上に竣成した神殿(仮殿)において、勅使の奉幣に続き祭主・仁和寺宮嘉彰親王が祝詞を読まれ、明治天皇の「大御詔」に基づいて戊辰の戦歿者三千五百八十八柱が祀られたことにより、常設的な「英霊祭祀」の施設である「招魂社」(東京招魂社)として創立されたのである。
 同八年一月十二日には、京都東山の祠宇に奉祀されてゐた「嘉永六年癸丑」(ペリー来航)以来の幕末殉難者並びに各地の招魂社・招魂場で祀られてゐた旧藩殉難者の霊魂が、元の祭祀の場は据ゑ置いたまま東京招魂社に合祀されることとなった。さらに同十二年六月四日には別格官幣社に列格、「靖國神社」と改称した。以後、同神社は幕末以来大東亜戦争までの国事殉難の英霊二百四十六万六千余柱が合祀されるなかで近現代日本の中核的な慰霊の公共空間といふ地位を確立し、敗戦を契機とする紆余曲折を経つつも本年、御創立百五十年の節目を迎へたのである。

 同神社で御創立を記念する大規模な祭典が始められたのは、大正八年の春季例大祭に引き続く五月一・二日の「御鎮座五十年記念祭」からであり、二日目に大正天皇の御親拝もおこなはれたが、かかる記念祭執行は、当時の賀茂百樹宮司にとって就任以来の悲願が十年越しで実現したものであった。
 また、戦後の昭和四十四年には、秋季例大祭に続いて十月十九日から二十二日にかけて御創立百年記念大祭が斎行された。二十日には昭和天皇の御親拝を仰ぎ、「靖國神社の百年祭にあたりて」下賜遊ばされた御製では、「国のためいのちさゝけしひと?をまつれる宮はもゝとせへたり」とお詠みになられた。
 すなはち、今回は五十年単位の記念大祭で初めて、天皇陛下の御親拝を仰ぐことができなかったことになる。

 本紙は昭和四十四年十月四日付論説において、「万世一系の皇位を中心とする自主独立の近代国家建設を、ひたすら願ひつつ中道に斃れた明治維新の先人たちの志を、どのやうに今日に承け継ぐか、天皇陛下の公的お祭りを受けることを無上の光栄としつつ、戦場に散った勇士たちの『安国』の祈りに今日どのやうに応へるか、時局騒然たる靖国神社百年のこの年に立って、われわれの思ふべきことは余りにも多い」と書いた。この内省は、当時より大幅に「後退」してゐると言はざるを得ない現状にもそのまま当て嵌まらう。
 現在、靖國神社では、神職が主体となって信頼できる外部識者とともに抜本的な「教学研究」に取り組んでゐるが、もちろん神社界全体で団結して考へなければならぬ最重要課題である。靖國神社問題の帰趨を決するのは、政治家でも知識人でもなく、当該問題を「我が事」として捉へ、祭祀の精神の最深部まで分け入ることのできる神道人でしかない、との強烈な気概を持つことなしに、現状の停滞を打開することはできないのである。

令和元年十月二十八日

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