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杜に想ふ 十月の桜 涼恵

令和元年11月04日付 5面

 最近、神祕的な体験が続いてゐる。この感覚をこの場を借りて読者の皆様とも分かち合へたらと思ひ、個人的なことかもしれないがこのまま筆を進めることをお許しいただきたい。
 皆様にもこんな経験はないだらうか、神饌のお米や炊きたてのお米が誰かが食べたかのやうにへこんでゐる。まるで今し方お召し上がりになられたかのやう――会話をしてゐるなかで絶妙なタイミングで天井から音がする。まるでお話を聴いてくださってゐるかのやう――など日常のなかで目に見えるカタチとして神様の存在を感じることがある。
 先日、秋の例祭の前日に御本殿の掃除をしてゐたら、御扉や大床の辺りは、それほど汚れてゐない。でも、階段や拝殿へと向かふごとに汚れは増してゆく。足袋を見ると一目瞭然。風向きの関係もあるだらうが、下界に降りれば降りるだけ、汚れてゆくのは自然の摂理なのだらう。改めて、神輿渡御のありがたさをしみじみと感じた。神様の方から下界へと様子を見に来てくださるなんて――。
 諸事情もあり、当神社も厳しい時代の変化のなかにあるのだが、例の隨に、変はらぬ神明奉仕に努めようと、氏子崇敬者とともに街を練り歩いた。そしてお宮に戻ってくると、桜が一房だけ咲いてゐた――見守られてゐる実感が溢れ、仲間とともに涙した。
 私事で恐縮だが、今年は国内外からお声掛けいただくことが増え、コンサートスケジュールはかなり立て込んでゐた。薄々、余裕がなくなってきてゐることに気付きながらも勢ひを止めなかった。しかし、警笛が鳴った。
 ある神社での本番を数日後に控へたある日、声帯を痛めて声が出なくなった。おそらく自分は調子に乗ってゐたのだらう。流れに乗るのは自然なことと安易に受け止めてしまったが、状況はそんなに単純なものではなかった。大切な喉を壊すまで、それだけ無理をしてゐることにも気が付かなかった。どこかで自分は大丈夫だと信じたかったのだと思ふ。慢心と奢りがあったことを深く反省した。
 時に身体は精神よりも本能的に反応する。自分の限界を体調で知らせてくれたのだ。自己管理ができてゐなかった自分がプロとして恥づかしい。情けない。申し訳ない。
 そんな気持ちを抱きながらも、今やるべきことに集中しようと決意・鼓舞して、舞台に立つと、そこにスーッと太陽の光が射し込んできた。心の曇り空さへ晴れ渡ってしまふほど、暖かくて神々しい光だった。
 公演後に、主催の方が「今うちの境内で桜が咲いてゐるの。秋咲きの桜もあるけれど、これは奇蹟ですね」と教へてくださった。
 神様の存在を感じずにゐられなかった。桜にも光にも。自然現象は一つのお示し。この失敗を活かして、永遠に自己研鑽を続けてゆかうと決意を固めた。時に厳しく。励ましながら。
(歌手、兵庫・小野八幡神社権禰宜)

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