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杜に想ふ 神楽の距離 神崎宣武

令和2年01月01日付 11面

 十一月五日に、「比婆斎庭神楽」を見学した。
 広島県東北部の旧比婆郡(現、庄原市)に伝はる。それも、旧比婆郡内でも比和町と高野町だけに伝はる。
 比婆といへば、国の重要無形民俗文化財にも指定されてゐる比婆の荒神神楽が一般的にはよく知られてゐる。この比婆斎庭神楽は、文化財に指定されることもなく、とくに観客を集めることもなく、神職が相互に加勢することによって伝へられてきたのだ。その歴史は、数百年さかのぼれる、といふ。
 「社家神楽」そのものが、現在では稀なる伝承である。壱岐神楽(長崎県)や奥飯石神楽(島根県)など、十指に足りるほどの残存例しかない。全国で二千件もあらうかといふ(数へきれない)神楽のなかで稀有な存在なのだ。社家神楽が減少したのには、それなりの理由があるが、ここではふれないでおく。
 そのときの比婆斎庭神楽であるが、日向山八幡神社でおこなはれた。
 拝殿を締め切った電灯の明かりのなかで、礼服姿の総代たちと私たち部外者十数人が片面に三列並んで座る。その対面に太鼓と笛と鉦の奏者が四人並ぶ。神楽は、中央で舞はれるわけだが、三畳間ほどの広さしかない。楽屋に相当する舞手の控へには幣殿が使はれる。幕での仕切りもない、まことに無造作なしつらへである。
 かつては、七座神楽ともいって七つの演目があった。現在は、榊舞・魔払ひ(猿田彦舞)・大仙・八幡の能の四つが舞はれる。すべて、単独舞である。前二つが清めの舞、後の二つが能舞。榊舞以外は、仮面や頭髪をかぶり、衣装も相応に派手である。そのところでは、近辺の他の神楽と同じやうに、近世での変化があったのだらう。
 舞は、型どほりに粛々としたものであった。神楽歌や言ひたても少ない。演劇性が乏しい、それが古流であらうことは、疑ふまでもないことである。
 とくに、最後の八幡神の舞は神々しいものであった。八幡神がそろそろと近づいてくると、皆が頭をたれてゐた。
 さうか、とあらためて納得した。至近の距離での神楽に意味があるのだ、と。そこでの演者は見栄を張ることもないし、観客も拍手を打つこともないのだ。両者が自然と神懸る状態に近づく、それが神楽の祖型ではないか、とも思ったのである。
 あわただしくもあったが、よい機会であった。
 じつは、私の郷里でも、神職による座神楽が伝はる。私も演じる。
 横打ちの太鼓を叩きながら、神楽歌と申上げ(口祝詞)を唱へての祈祷である。なかなか無我の境地には至らないが、まれに体が宙に浮いた気分を味はふことがある。正月には、さうしたなかで令和二年の彌栄を祈念したい、と思ってゐる。
(民俗学者、岡山・宇佐八幡神社宮司)

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