文字サイズ 大小

杜に想ふ 神社“を”参拝する 植戸万典

令和2年05月18日付 4面

 世界中の宗教関係者にも「COVID―19」は課題となってゐる。集会などの従来の宗教活動そのものが感染拡大のリスクを孕んでをり、聖職者たちは各々対応に苦慮してゐよう。米国在住の知人によると、牧師がヴェランダに立ち、信者はドライヴイン・シアターのやうに乗車したままカーオーディオで説教を聞くといふ方法をとったキリスト教会もあるらしい。
 かうしたなかにあって宗教家には、それぞれの活動を見直すだけでなく、社会へ向けたその信仰に基づく意見も求められてくる。この困難な状況の理由やそれを超克するための「教へ」が期待されてゐるやうだ。苦境において、科学的には「ありのまま」でしかない世界に、宗教はその世界をどう見るか提示することができる。それは宗教における本質的な意味での「広報」かも知れない。
 日本でもこのパンデミックにおける社寺の活動が間々注目されてゐる。疫病の終熄祈願は宗教宗派を問はずされてきたことで、今回もそれが期待されたか。一方、統一的な「教へ」を神社神道として説けるかとなると、やや難しい。古く疫病は祟りであり、それは廔々理不尽で、倫理的な意味での神罰とは些か異なってゐた。
 神の祟りを鎮めてきたのは祭祀や法会だ。しかし崇敬者は今、その祭祀に参加ができない。祈るため社頭に詣でることも憚られてゐる。そんな背景のなかで、一部でまたウヱブ上の「参拝」に関心が寄せられてゐる。
 神社界ではこれまで、祈祷も神縁品の拝受も直接の参拝を原則とし、代参や授与品の送付はそれが叶はない場合の例外としてきた。斯かる考へのもと、インターネットでの「参拝」も消極的な見解が強かった。これに賛否はあらうが、斯界が「参拝」といふ行為を、字義通り“参”った上で“拝”むことに重点を置いてきたことは確かだらう。
 参拝が「参って拝む」ことである以上、表現も「神社“に”参拝する」が自然だ。しかし最近、神社界でも「神社“を”参拝する」といふ表現が目につく。「参拝」が単に「拝む」だけの意味として認識されてきたのか、はたまた参拝からさらに先の行為を意図してゐるのかは不明だが、言葉が常に変化してゐるのと同期して、「参拝」といふ行為への理解も変はってゐる可能性もある。
 もっとも、だから「ウヱブ参拝」が可能になったのだ、と一足飛びに主張するものでもない。現下は非常時なのだ。今はただ、宗教が人々に世界の見方を示す道具が言葉であると心得て、助詞ひとつと雖も疎かにしない気概を持つだけだ。
 古く病は鬼の仕業ともされた。さう云へば、漢文の訓読に「ヲニト会ったらそこヨリ返れ」といふ覚え方がある。神社“を”参拝にせよ、神社“に”参拝にせよ、いづれ今は鬼を避け、家に帰って遙拝したい。
(ライター・史学徒)

オピニオン 一覧

>>> カテゴリー記事一覧