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杜に想ふ 鉄道の記憶 神崎宣武

令和2年07月27日付 5面

 現在、若い研究者たちと「軽便鉄道」(軽便)をテーマとした共同研究をおこなってゐる。
 軽便鉄道とは、明治四十三年(一九一〇)の「軽便鉄道法」によって敷設された鉄道である。日本における鉄道は、周知のとほり、明治五年(一八七二)の新橋―横浜間の開業に始まる。以来、江戸時代の主要街道に沿ふかたちで、つまり都市を結ぶかたちで、次々に鉄道が敷設された。それらを統合して「鉄道国有法」となる(明治三十九年)。しかし、それでは手がまはらないところが多いことから、簡便な軽便鉄道の促進もはかられたのだ。かくして、明治末から大正時代にかけて小規模な軽便が各地にできた。その数百二十五が確認できる(岡本憲之氏調査による)。
 昭和四十年前後、といふと経済の高度成長がはじまるころ。自動車交通の発達にあはせて、軽便鉄道が後退、廃絶することになった。現存するのは、三重県における四日市あすなろう鉄道(四日市―西日野)と三岐鉄道北勢線(桑名―阿下喜)の二路線だけとなった。
 軽便鉄道は、例外もあるが狭軌で七百六十二ミリを基準とする(幹線鉄道は、広軌で千六十七ミリ)。俗にトロッコ鉄道といはれ、とくに地方の物資輸送には重要な役割を果たしてきた。北海道や九州の石炭・東北や四国の鉱石・中部地方の木材など、近代の産業開発は、軽便なくしては語れない。そして、地方都市と有名寺社を結ぶお参り列車の発達もみたのである。
 私にも、記憶がある。私の故郷は、吉備高原上(岡山県)の農村。大きな河川もなく、町へ出るには不便の地であった。もっとも近い鉄道の駅は、井原か矢掛。それは、井笠鉄道といふ軽便の駅であった。子供の眼には、軽便は都市の象徴にも等しく、それに乗るのには相応の緊張を強ひられたものであった。
 その軽便鉄道のあれこれを追ってゐて、気にかかったことがある。そのひとつが、事故のときの対応である。その物故者をどう扱ってゐたかだ。
 現在は、各鉄道会社に鉄道神社なるものがある。物故者供養碑なるものがある。そこで、年に一度は、安全祈願祭と慰霊祭がおこなはれてゐるはずだ。しかし、それが定例行事となるのは戦後(第二次大戦後)のこと。軽便鉄道では、その習慣がさらに薄い。東北地方でもっとも大規模で、平成十九年まで営業した軽便に勤務してゐた人たちに聞いたところでは、その記憶がない、といふ。はねられた人が悪い、といふ風潮があった、ともいふ。
 さうかもしれない、と思ったのは、四国山地の森林鉄道(軽便に準じるトロッコ鉄道)の調査で、残存してゐた切符を目にしたからだ。そこには、「人命は保証せず」とあった。それでも、人びとは便乗してゐたのである。
 月並な言葉だが、時代の移り変はり、といふしかない。「忘れられた軽便」がいとほしくも思へてくる。
(民俗学者、岡山・宇佐八幡神社宮司)

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