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杜に想ふ いまどうなってる? 須浪伴人

令和2年10月19日付 5面

 先日、近所の子供が「コーロナ、コロナ大流行!」と歌ひながら走り回ってゐた。どこぞやの広告に使はれてゐる曲の節回しだったので何とも複雑な気分になった。
 最近、と言っても新型コロナウイルス感染症自体が最近のものだが、世の中がいはゆる「コロナ禍」に慣れてきた感がある。
 いや、むしろ飽きてきたのかもしれない。世間一般では四連休だった先月の週末、各地の観光地は大勢の観光客で賑はったといふ。五月の連休と比べれば何とも暢気な話だが、出掛けたくなる気持ちはよくわかる。
 そんな中で海外の様子はどうかと情報を探すと、なかなか具体的な様子がわからない。一時期は毎日のやうに他国の感染者数や死亡者数、感染拡大に伴ふ社会の混乱が報道されてゐたが、このところは大まかなものしか見かけなくなった。探し方が悪いのか。
 人間誰しも、情報が更新されなければ最後に見聞きしたものが最新の情報として維持される。五年ぶりに会った友人から白髪が一気に増えたと指摘されたりするのも、友人の中で情報が古いままだった結果だ。そもそも白髪なんてものは、たとひボクシングで死闘をくり広げたとしても一気に増えたりしない。
 情報の更新以外に、いや、以上に厄介なのは先入観の払拭だらう。国内でのわかりやすい例は「県外ナンバーお断り」か。とくに東京在住の身としては肩身が狭い。遠野物語にも似た話が収められてゐたが、人は変はらないといふことか。
 この先入観なる怪物が疑念を身に纏ふと、追ひ払ふのはさらに難しくなる。下手をすると不可能かもしれない。それこそ真偽のほどは定かではないが、新型コロナウイルスの発生源を特定の国だと主張する声は根強く、一国の大統領までもが名指しで非難してゐる。事実であれば良いのだが、さうでなければただの誹謗中傷だ。疑惑の証明責任は、それを主張する側にある。
 ここで問題なのは、情報を提供する人々の中立性だ。もしその情報が特定の意図に基づいて偏ってゐたらどうなるか。昨今は個人による情報発信が増え、事実確認をしないままの一方的な感情が増殖する傾向が見受けられる。もちろん、受け取る側にも準備が必要だ。先入観と疑念に基づいた情報の取捨選択をしてゐては、疑念の泥沼にはまり、自身の信じる正義しか受け入れられなくなる。事実を把握して適切に対処するなど到底できないだらう。
 新型コロナウイルス感染症については、感染症としての評価を引き下げる可能性が報道されてゐる。果たしてインフルエンザと同等に扱はれることを先入観と疑念で行動する人々はどう受け止めるのか。
 いづれにしても、この状況が早く収まってほしい。うちの配偶者は各地の美味しいものが大好きなのだ。
(神職・翻訳家)

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