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論説 明治神宮鎮座百年祭 御歴代の祈りと国民の祈り

令和2年11月09日付 2面

 明治天皇と昭憲皇太后の御神霊が鎮まられてより満百年、十一月一日に明治神宮鎮座百年祭が斎行された。これに先立ち、天皇陛下には御製「百年の世のうつろひをみまもりし御社は建つ明治の杜に」を献ぜられ、十月二十八日には親しく御拝あらせられた。



 大正九年十一月一日、代々木の杜に建った本殿内陣の神座に明治天皇及び昭憲皇太后の御霊代が奉安され、鎮座祭がおこなはれたが、同月十一日には大正天皇が御親拝になられてゐる。また、昭和五年の鎮座十年に当たっては昭和天皇、平成二十二年の鎮座九十年の際には上皇陛下の御参拝が実現したやうに、大正・昭和・平成・令和の各時代を通して折々に天皇の明治神宮御親拝がおこなはれてきた。このことは、明治天皇に対する篤い御尊崇と御敬神の念を御歴代が連綿と御継承されてきた現れに他ならず、誠に意義深い。



 明治天皇の御敬神の御事績は、「紀元二千六百年」に当たる昭和十五年、明治神宮鎮座二十年を記念し内務省神社局指導課が編纂した『明治天皇の御敬神』を繙けば一目瞭然である。とくに同書の「神祇と御製」には、「とこしへに民やすかれといのるなるわがよをまもれ伊勢のおほかみ」(明治二十四年)や「神垣に朝まゐりしていのるかな国と民とのやすからむ世を」(明治三十七年)など、約百首もの神祇関係の御製が収録されてゐる。ここに三島由紀夫『文化防衛論』がいふ如く「祭司かつ詩人である天皇のお姿は活きてゐる」のであり、また、葦津珍彦が繰り返し説いたやうに、ひたすら「国安かれ、民安かれ」と祈られてきた「祭り主」の真髄が見られるのである。
 昭和五十五年の鎮座六十年に当たり昭和天皇は、「明治天皇を偲びまつりて」献ぜられた御製で「外つ国の人もたたふるおほみうたいまさらにおもふむそぢのまつりに」と明治天皇御製の普遍性を回顧されたが、その御姿勢を継承された御親らも「ふる雪にこころきよめて安らけき世をこそいのれ神のひろまへ」(昭和六年)や「五月晴内外の宮にいのりけり人びとのさちと世のたひらぎを」(昭和五十五年)などの神祇祈世の御製を多く遺されてゐる。
 また、上皇陛下が鎮座九十年に際し「新たなる知識世界に求めつつ国を築きし御代をしのびぬ」と献詠された如く、明治の御代は確かに進取の気性に富んでゐた。ただ、今年渙発百三十年の教育勅語に見られるやうに、伝統的道徳観も忘れられてはゐなかった。
 本紙は、鎮座三十年祭に当たっての社説(昭和二十五年十月二十三日)で「明治天皇を拝する時に、われ等はこの時代の厳粛なる伝統保持の精神と、積極果敢なる創造進歩の精神との絶妙なる統合に心をうたれる。これこそが真に生命的な神道精神とも称すべきものではあるまいか」と記した。伝統と創造の統合が神道精神なのである。



 昭和天皇は、昭和四十五年の鎮座五十年に際し「おほぢのきみのあつき病の枕べに母とはべりしおもひでかなし」とお詠みになり、明治天皇の御闘病に間近で接せられた御幼少期を思はれ、悲しみを新たになさってゐる。
 一方、御病気平癒を祈り続けた「六千余万臣民ノ熱誠」(徳富蘇峰)は、明治神宮御創建の原動力となった。鎮座五十年時の本紙論説(昭和四十五年十一月二日)によれば、「崩御を悲んで慟哭し、その追慕の念ひが国民挙げての神宮創建の熱願となって、つひに政府を動かした事実、また、晴れの御鎮座祭を奉祝して歓呼押しかけた大群集の初参拝の状況などは、いかに明治神宮が国民大衆の中に生き生きとした御存在であるかを示すもの」であった。
 さらに同号の座談会「明治神宮五十年の歩み」に紙上参加した葦津珍彦は、「大正、昭和の現代史についての史料(伝記、日誌、記録)などを見て行くと、有名無名の日本人が何か重大な決心をする時に、明治神宮に参拝したことが記録されてゐます。それは実に多い。(中略)御鎮座いらい五十年、その歴史は長くはありませんが、数万数十万の人が、この神苑で決意を固め心を浄められて現代史を築いてきた。その無数の事実は、神宮の正史では書くこともできないが、日本人の精神史の上で貴重なこと」と指摘してゐる。
 御歴代の祈りと国民の祈り。明治神宮は両者を繫ぐ場として「百年の世のうつろひ」を見守ってきたのである。
令和二年十一月九日

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