文字サイズ 大小

杜に想ふ 無税・公益・楽園 植戸万典

令和3年04月19日付 5面

 租税回避地をタックス・ヘイヴンと云ふ。「税金天国」だと誤解されやすいが、天国を指す「heaven(ヘヴン)」ではなく「haven(ヘイヴン)」なので、そのまま「税の避難所」の意味だ。もっとも、伊語や仏語などでは「税の楽園」と表現するらしいから、あながち的外れとも云へまい。徴税といふ公権力の支配から自由になるなら、仁德帝の故事を引くまでもなく庶民にとっては天国であり楽園でありエデンの園だらう。
 世の中には統治権力の及び難い「聖域」が存在する。日本も古くは山や港、市場など、支配の及びきらない境界が遍在してゐた。社寺もそのひとつだ。宗教的権威を背景に徴税権や警察権の干渉を拒む自治領域となったそこは、史学で「アジール」と呼ばれる。
 アジールは世俗の権力から独立した社会的な避難所であり、古今東西で見られた。日本でも、その山門を潜れば罪人もそれ以上の追及を逃れた。鎌倉の東慶寺のやうに駆け込めば嫌な夫と離縁できる縁切寺もあった。網野善彦氏の『無縁・公界・楽』で有名となった概念だが、すでに戦前の平泉澄氏が『中世に於ける社寺と社会との関係』でその存在を指摘してゐる。近年もさまざまな論争があり、若手研究者の業績も注目される。
 さうした異界は、特権を天与のものとして享受する楽園だったのだらうか。否、むしろ対立する統治権力の容認によって成り立ち、逃避者も世間との縁を絶って苦と向き合ふこととなる。そのため、全国的な統治の力が衰微した中世には有効だったが、近世以降は次第に否定され、避難所としての機能は共同体そのものの内部に取り込まれてゆく。
 現代でアジール的に扱はれる空間は大使館などに限られる。ただ広く解釈すれば、社寺の宗教活動には徴税が及ばないといふ点に不輸の面影を感じられるかもしれない。
 宗教行為が無税なのは、信仰に基づく非営利の活動だからであり、畢竟それが世俗を超える公益だからだらう。例外的に免除を容認するその理路はアジールも思はす。問題は、社寺の活動を社会が公益と認めるか。
 貨幣経済が主流となって神仏への奉納も物から金銭になったやうに、社会の変化に社寺の側も合はせてゆくことは大切だ。一方で、社寺へ納める金員を寄進でなく神符守札や神事の対価と考へ、彩り豊かな授与品を参道の土産物の延長と見る向きもある。さういふ「参拝客」にとって、社寺の活動は私企業の営利活動と何が違はう。
 アジールがあくまでも統治上の譲歩で存続し、そして統治の中で否定されて消滅したやうに、現代に社寺側がどう強弁しても喜捨する側――すなはち国民全体の意識が変はれば公益に基づくといふ特権も理由は無くなる。
 世俗に染まり過ぎないことも宗教の意義なのだらう。聖書では、禁断の果実を口にしたことでアダムとイヴは楽園を失ってゐる。
(ライター・史学徒)

オピニオン 一覧

>>> カテゴリー記事一覧