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杜に想ふ 問答 神崎宣武

令和3年05月24日付 6面

 私の本務社(岡山県・宇佐八幡神社)では、年に五回の例祭をおこなふ。元旦祭・子供祭・八朔(夏祭、八月一日)・敬老祭(九月、敬老の日)・大祭(秋祭、十一月第二土・日曜日)である。
 役員(総代・敬神婦人総代)の任期が三月末までなので、新しい役員が祭務に就くのは子供祭(五月五日)からとなる。今年は、二十人のうち十六人が新役員となった。かうした時、私は、祭典の次第について、できるだけ丁寧な説明を心掛ける。が、質問はほとんど出ない。当番組(頭屋組)の務めなどでそれを見てきてゐる人がほとんどだからである。
 今年は、意外な質問が出た。比較的に若い、といっても六十代前半の男性役員からである。
 「大祓詞にある、荒振る神等をば神問はしに問はし賜ひ神掃ひに掃ひ賜ひて、についてです。これは、災ひごとが起きるのも神様が荒振るから、といふことでせうか。ならば、憎きコロナもさういふことになりますか」
 私たちの例祭の祭典では、玉串奉奠の後、参列の役員や当番(頭屋)などが全員で大祓詞を奏上する。新役員には神拝詞を配布するので、彼は、それを事前に読んできたらしい。
 私は、古くから疫病封じには「疫神」が祀られてをり、このあたりでもその跡がある、といふ歴史を説いた。が、時間の余裕がなく、後は祭典が終はってから、といふことにした。
 祭典後に、彼と対で話をした。彼がいふ。
 「仏教の経典もむつかしいし、十分な理解はできない。だが、むつかしい言葉をとりあげて、時々にお上人が説教をなさる。だから、何となくなじめるやうな気がする」
 それに対して神道では、とまではいはなかった。しかし、私は、納得した。
 たとへば、電話相談やテレビでの癒し系番組などの多くは、僧侶が担当してゐる。仏教も宗派によって違ひがあるが、そこでいふなれば、僧侶の方々は世情に通じてござるのだ。それは、明治初年の神仏分離(神仏判然令)以降(第二次大戦時まで)の神道と仏教の歩みの違ひがあってのことだらう。また、現代でいふなれば、学校や寺院での修行年限が長いからでもあるだらう。
 だから、私たち神職もそれに対抗して、といふのではない。ただ、時代は大きく変はってきてゐるのだ。私の本務社でいふと、つい数年前までは、役員は私より年長や同世代の人がほとんどであった。そこでは、言葉を多く労さずとも何かにつけての暗黙の諒解といふものがあった。それが通じにくくなってゐるのだ。話題も変化してゐるのだ。先のやうに正面から問うてくれればよい。さうでない場合は、どうすれば心地よい信仰心が共有できるのか。文化伝承が叶ふのか。私自身は、そのことを考へるきっかけができたやうに思ふ。
 この次は、先の彼に、また質問をしてもらふことにしよう。そこで問答をしてみよう。老いもまた楽しき哉、である。
(民俗学者、岡山・宇佐八幡神社宮司)

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