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杜に想ふ サンバイ 神崎宣武

令和3年06月28日付 5面

 田植ゑどきを過ぎようとしてゐる。
 以前は、六月が田植ゑどきであった。西南日本から東北地方にかけて、ほぼ一カ月をかけて田植前線が北上したものだ。それが、稲の品種改良や、農村でも勤め人が増えて五月連休を作業にあてる傾向が生じたことから、現代では、田植ゑどきが一カ月も早まって定着した。
 さういへば、新聞紙上で田植前線の地図を見なくなって久しい。いつのころからであらうか。以前は、桜前線からほぼ二カ月を経て田植前線が現はれてゐたものだ。二つの前線のカーブは、ほぼ重なってゐた。
 古く、農村にとって山桜の開花は、農作業の開始を知らせるものだった。水もぬるむころ。それから田を鋤いて水を引く。一方で苗代を作り、苗の生長を待って田植ゑとなるのだ。
 田植ゑは、神聖な行事であった。一番田に苗を植ゑるときは、田の神を勧請して祀ったものである。私が詳しいのは、備中・備後地方のそれだが、そのときの田の神を「サンバイ」(サンバイさん)と呼んだ。水口に山から手折ってきたサカキやウツギの枝木を立て、その前に苗を三束置いて神床とするからだ。三束がサンバイと呼ばれるやうになった、とみてよからう。
 その苗三束の上には、カキの葉のやうな大きめの青葉を敷き、その上に御飯を一箸供へる。それが、青豆飯であることもある。また、そこに正月の歳神棚からメザシを下ろして供へるところもあった。祀り方は、ところによってさまざまだが、とくに田植ゑはじめは、それぞれが田の神を祀って豊作を祈念したものである。それが、田植機の普及以降見られなくなって久しい。
 もっとも、しかるべき神社での御田植祭や文化財指定(重要無形民俗文化財)の類の田植行事などは伝承されてきた。これからも、しっかりと伝へられていくであらう。
 しかし、集落ごとの、あるいは結(共同作業でおこなふ田植組)や家ごとの伝承にも、いまいちど目を向けておかなくてはならないのではあるまいか。しかし、それが簡単ではないのだ。
 さう思って、私は、二年前にサンバイの再現を試みてみた。その結果、田植機に載せる苗では、寸法が短く腰も弱いところで三束がしっかり組めないことがわかった。むかしの苗床で育った苗とは違ふのだ。
 さうか、その手があるか。ひとつの可能性に気づいた。
 各地で、子供たちを集めて田植ゑを体験してもらふイベントがおこなはれてゐる。それが、よい機会であるやうに思ふ。そこでは、田植機に載せる苗ではなく苗床で生長した苗を使ってゐる。ぜひ、田の神を祀る行事をそこに加へてもらひたい、と思ふのだ。今年は、もう遅いが、さう呼びかけてみよう。来年は、どこかで、子供たちに。さう期待しておかう。
(民俗学者、岡山・宇佐八幡神社宮司)

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