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杜に想ふ 伊豆大島にて 涼恵

令和3年10月11日付 5面

 今年に入り、ミュージックビデオの撮影などで二度、伊豆大島を訪れてゐる。東京から伊豆大島であれば、ジェット船で最短一時間四十五分と、意外に近い。
 「東京から」といったが伊豆諸島も同じ東京都。ただ、伊豆大島で過ごす時間は、古き良き時代といふのか、昔ながらの日本人のおこなひや習慣に触れることが多かった。
 例へば、信号もない細い道路の交差点。車と車が鉢合はせになっても、自然とどちらかが譲り合って、苛立つ様子もなければ、事故になる気配もない。きっと心に余裕があるのだらう。
 とくに印象的だったエピソードがある。夕方、地元の人で賑はふといふ海沿ひにある水着着用の露天温泉に行った時のこと。
 背中を真っ赤にした青年が入ってきた。銛で魚を突いてゐて、背中だけ日焼けしたのだといふ。海水のお湯では、日焼けした身体に沁みて、何度か入らうとするものの、痛がって入れない。通常であれば、湯船の一角に真水が流れる箇所があるらしいのだが、不運にもその時は止まってゐた。
 彼は残念さうにしながらも、「大丈夫です」と笑って、湯船には入らず海を見つめてゐた。常連らしい老紳士がすっくと立ち上がり、奥へと入ってゆく。ほどなく従業員がやって来て、「今から水出してあげるから、待っててね」と、声を掛けた。青年は大きな声で「ありがたうございます!」と老紳士にも頭を下げた。老紳士は無言で左手を挙げて応へた。周りのお客たちも「良かった、良かった」と、安堵の様子で声を掛け合ひ、場が和んでゆく。
 私はこのやり取りに、感動した。見ず知らずの人たちの連携プレー。他人に無関心ではなく、周りに対する思ひやりが循環してゐた。伝へ方は人それぞれ。人によっては、クレームを言ふのかもしれない。でも、主張しないほうが想ひが通じる場合もある。
 ほんの一声や行動で状況が変はる。他人からの後押しは大きなもの。ベビーカーの親子連れ、エレベーターで開くボタンを誰かが押すだけで、助かる人がゐる。
 伊豆大島には三原山といふ活火山があり、地元の人たちは“御神火さま”と称し、古代より崇められてきた。熔岩や土石流を噴出するさまは出産を彷彿とさせる。一説には、三原山の「みはら」とは「御腹」だといふ。
 山頂には三原神社が鎮座されてをり、昭和六十一年の噴火の際には、奇蹟的に熔岩流が社殿を避けて通り、被災しなかった。全島民は避難して死者は一人も出なかった。御神火さまのお蔭だと、島の人は話す。その表情からは、誇らしくも慎ましく、畏れ敬ふ姿勢が日頃から身に付いてゐるのが窺へる。それに応へるかのやうな御神火さまの御守りが感じられる。まだまだこの島から教はることがありさうだ。
(歌手、兵庫・小野八幡神社権禰宜)

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