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論説 葦津珍彦歿後三十年 神社の精神的本質の死守を

令和4年05月30日付 2面

 来る六月十日、神社本庁の設立等に深く関与した葦津珍彦が平成四年に帰幽してから三十年の節目を迎へる。
 終戦直後に本庁設立が検討された際、管長のもと教義・経典を有する中央集権的な組織を目指す「神社教」案に対し、葦津は各神社の独立性を尊重しつつ統一的な教義・経典を持たない緩やかな連合体とする「神社連盟」案を提案。最終的に葦津案がおほむね採用される形で神社本庁が設立された。
 その神社本庁は昨年七十五周年を迎へ、今年は新たな一歩を踏み出す時ともいへよう。葦津とともに本庁を支へた先人の多くが鬼籍に入り、その謦咳に接した人たちも減少してゐる。改めて葦津の理想・精神を顧みつつ、今後の神社・神社本庁のあり方を考へたい。

 もとより葦津の理想・精神を限られた紙幅のなかで紹介することは容易ではない。ただ例へば昭和五十八年に葦津が執筆した未公刊文書「神祇制度思想史につき管見―本庁講師教学委員辞任に際して―」の末尾には、「国の神祇制度上、神宮神社を法制的に『国の宗祀』として復古する希望が消えたとしても、神社の精神の本質が、『日本人の社会国家の精神的基礎である』との信條を死守する線からの退却は、決して許されない。神社が自ら、私人の一宗教の類と認めることは決して許されない」との悲壮ともいへる思ひが綴られてゐる。
 このなかで葦津は、占領下での「暫定制度」を「理想的恒久制度」と認識するやうになったことで、神社本庁の精神的空洞化と無気力現象が生じてゐることを指摘。高度経済成長にともなふ神職・総代等の意識の変化にも言及し、どれほど社頭が経済的に繁栄したとしても、神社の精神的本質の放棄は許されず、その死守こそが神社本庁の最後の任務であるとまで主張してゐたといふ。それから四十年近くが経過した現在、葦津が指摘した本庁の制度的課題、死守を訴へた信条がどれほど共有されてゐるのか、また先人の理想と現状に乖離はないのか、改めて見直すやうなことも必要だらう。

 もとより戦後の経済成長、社頭の繁栄をいたづらに否定するものではない。神社の護持運営をはじめ、神職の日々の生活、さらには子弟など後継者の養成には多額の費用が必要となる。
 ただ戦後の社会変化のなかで、とくに近年はさまざまな価値観の多様化が進展。かねて斯界においては、経済発展の裡に進行した精神文化の荒廃が深刻な社会病理となってゐることや、厳しい時流の変化とも相俟って思はぬ道義頽廃が進みかねない状況にあることなどへの憂慮が示されてきた。さうした社会環境の影響により神職・総代等の意識にも次第に変化が生じるなかで、ややもすれば斯界の興隆や斯道の宣揚などよりも、一個人の権益や一神社の経済的な繁栄ばかりに目を奪はれがちになるやうなことも懸念される。
 先の文書で、葦津が法制的な復古の可能性に言及した「国家の宗祀」としての神社の位置付けは明治政府によるものだが、さうした精神自体は国史を通じて一貫したものだらう。確かに戦後、神社は寺院・教会等と同様に宗教法人となり、神社本庁はその包括法人として設立された。現行法に基づく法人としての運営はもちろん重要だが、敬神生活の綱領や神社本庁憲章によって改めて成文化されたやうな歴史・伝統を踏まへた精神、神社が「私人の一宗教の類」とは異なるといふ意識も決して疎かにしてはならない。さうした精神・意識の稀薄化・形骸化こそ斯界の危機である。

 葦津は斯界に逆風が吹き荒れる厳しい時代のなかで、伊勢の神宮に奉斎される神鏡の法的地位の確認や靖國神社の国家護持をはじめ、紀元節復活、剣璽御動座、元号法制化などの国民運動を理論的指導者として牽引。神道の弁護士、神道の社会的防衛者を任じて神社・神道のために生涯を捧げた。さうした葦津にとっては、「神社神道をして、日本国民の精神的指導力たらしめ」、わが国を「浦安の国」にするといふ崇高な目的のもとでこそ、経済的な繁栄も意味を持つものであっただらう。
 その歿後三十年を迎へるにあたり、葦津が弁護・防衛しようとした神社・神道、その精神の本質が「日本人の社会国家の精神的基礎である」との信条を死守することの大切さを改めて胸に刻みながら、神明に奉仕する神職・総代としての矜持を共有したい。
令和四年五月三十日

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