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杜に想ふ 春の福を待ち兼ねる 植戸万典

令和6年02月12日付 5面

 春節の中華街では龍が舞ふ。皇帝や駿馬の喩へにも使はれて誰もが知るさうした「龍」とは、古代のワニだった。これは青木良輔著『ワニと龍』で有名になった説だ。もし本当なら、日本にも「龍」がゐたことになる。
 「わに」は日本神話にもしばしば現れる。稲羽の素兎に騙されたり、山幸彦の海と陸の往還を助けたり、豊玉姫がその姿に変化して山幸彦との子を産んだりしてゐる。爬虫類のワニは日本列島に棲息しないため、ここでの「わに」はサメのことだとよく説かれるが、それには古くから異論も多い。大陸や南洋のワニの情報が反映したものとも云はれる。
 否、そもそも日本列島にもワニ類はゐた。マチカネワニといふ、全長七メートル前後と推定される太古の巨大なワニだ。化石が発見された大阪の待兼山にちなんで命名された。世界的にも貴重な発見で、近縁種が中国にも分布してゐたことも近年の発掘調査によって明らかとされてゐる。そして、さうしたワニこそ龍の正体だと青木氏は見てゐるやうだ。
 『史記』に夏王朝の孔甲が龍を食べる話のあるやうに、古代中国で龍とは現実的な動物であり、それはマチカネワニの同属だったが寒冷化によって姿を消したことで伝説化して神獣となった、といふことである。
 「わに」はワニで、龍はワニなら、神代の「わに」は龍だとみなせなからうか。つまりワニの棲息した古代の日本には龍が存在したのだ、と。現に『日本書紀』は豊玉姫が化身したのは「龍」だと記述してゐるのだから、神武帝は「わに」の子孫であるとともに龍の子孫でもある。ちなみにマチカネワニは学名「トヨタマヒメイア・マチカネンシス」だ。
 もっとも、仮にさうだとしてもそれは今日我々が共通に理解する神格化した「龍」とは全く別物だらう。ワニは空なぞ飛ばないし、球を七つ集めても願ひなぞ叶へてくれない。本邦の「龍」はワニとしてではなく、中国の神獣や仏教の龍王などとして伝はり、在来の大蛇と習合したものだ。さらに独自の信仰も形成し、由緒と縁深い社寺は今なほ多い。
 ただし藤本頼生氏の論文によれば、戦前の神祇院は、社名や祭神名に仏語を使ふものは不適当で是正すべきとしてをり、そこで例示されたものには龍蛇神や龍王も含まれてゐたさうだ。これは、社伝で龍神とされてゐても祭神名としては帝国の神祇に相応しい表現が求められたといふことだらう。確かに、彼の女神が祭神の神社でも「わに」を祀ってゐるわけではないな。まぁ、それでも特別視してしまふのが日本人にとっての龍なのだが。
 マチカネワニの化石が出土して、ちゃうど六十年となる。伝説上の龍へ繋がるロマンも祕めたそのワニは奇しくも本年と同じ甲辰に見つけられ、歴史的な意味も齎した。厳しい始まりとなった今年だが、その発見のやうにフクキタルことを麗らかな春の訪れとともにマチカネるものである。
(ライター・史学徒)

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