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杜に想ふ 能登の住人 八代 司

令和6年03月25日付 5面

 良いモノを好む職人気質で、思ひ入れが強い親父が生前使ってゐた手漉き和紙製の名刺には、父が始めた造園業の会社名とともに、名前の上には肩書のやうに「能登の住人」と小さく書かれてゐたと記憶してゐる。
 お察しの通り、元日に能登半島地震が発災し、故郷・能登の実家も被災した。私は隣県で仕事をしてをり、たまたま帰省してゐた姪が母と居てくれたことはありがたく、避難所となった市立体育館では姪が備蓄物資の配布などで立ち働き、地元住民からは市役所職員と間違はれてゐたとのこと。苦笑のなかに一昨年成人式を迎へた姪の成長が嬉しかった。
 二人は津波と余震に怯えながら、冷え込む体育館で一夜を過ごし、翌二日の早朝に姉と義兄が迎へに行ってくれ、母は現在も金沢の義兄宅で避難生活を送らせてもらってゐる。
 私が地元で体感した大きい地震は平成十九年三月二十五日の能登半島地震。当時は週一度、石川県内のラヂオ局で地元のお天気を伝へるコーナーのレギュラーであったため、商店である私の家のショーウインドウガラスが大破してゐるとラヂオリスナーから投稿があり、惨状が県内一円に放送されてゐたことを後日知って驚かされた。
 しかし、今回の地震は規模が違ふ。
 前の地震で大きく破損した場所の修繕はしたものの、建物自体も老朽化し、また近年、群発してゐた余震で幾度となく揺さぶられた家屋は全壊こそ免れたものの、大規模半壊との判定。隣家が拙宅に倒れ、わが家自体も反対側の隣家の軒先とくっついてゐる。また曽祖父が建てた土蔵は斜めになってをり、隣家に倒れないかが心配の毎日。建具のすべてが歪み、正直、生活することはもとより、片付けもままならない。当初、漏電が怖く、通電が確認できたのは一月十九日。水が通ったのは二月三日の節分の日。『古今和歌集』に収められる紀貫之の「袖ひちてむすびし水の……」を思ひ出したが、立春となる翌日には漏水のため早くも断水となった。
 ふと、奥能登の能登町鵜川鎮座の菅原神社の古風な新嘗祭「いどり祭り」を思ひ出した。
 「いどる」とは「難癖を付けて貶す」との方言。六町内が交代で当番となり、七升五合の糯米で搗かれた直径一・二メートルの大鏡餅二組や丸形小餅などをお供へするのだが、直会で「今年の餅はせんべいのやうに薄い」や「表面がしわだらけで、色が黒い」と他の氏子から“いどられる”。当番の氏子側からの弁明の掛け合ひも面白く、最後は宮司が「来年の豊作を神様に頼みませう」ととりなしてめでたく祭典が納められる。今年の作物の出来栄えを御神前であへて酷評することで御神威の発揚を冀ひ、来年の稔りを願ふのも素朴な祈りの形の一つと思ふ。
 世間では桜の便りも聞こえてきたが、未だ神棚や宅内の正月飾りも片付けられてゐない現状をお伝へし、惨状を見そなはす能登をはじめ諸国に鎮まる神祇に復興をお祈りしたい。
(まちづくりアドバイサー)

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