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杜に想ふ 古人もすなる日記 植戸万典

令和6年04月22日付 4面

 新生活をはじめる人を応援する側になってどれほど経つものか。とはいへ、自分が助言できることなんてさほどない。先輩風なんて今時分は方々で吹いてゐようが吹かせる方も偉ぶれるほどに立派でもなし、おほむね受け流されてしかるべきものである。
 わが身を顧みると大学院を出た春、史学に身を置いたからには日記を残すべきだらうと意気込んで日々のことを記しはじめた。取り急いで選んだ罫線だけのノートは同じものをその後も買ひ足し続け、今も一日と空けずに綴ってゐる。もっとも、一行だけといふ日も珍しくなく、ひねもす家に籠ってゐるだけの日は「特になし」のことや、書きそびれたら数日遡ることも。気負ってはじめた割に適当だが、個人の記録ならば十分だらう。今読み返すと、当初は上司先輩への愚痴も多い。
 たださうした私的な日記とは異なり、半ば公的な記録だった日記もある。平安貴族らの日記は他者、就中子孫へと伝へることを前提とした政治的なものだった。ものによっては儀式における動きや所作まで詳しく記録してゐる。古記録は往時の様子を窺へる一次史料であり、一方で、さうしたものにも端々には古人の愚痴やら人物像やらが見え、昔も今も人はさう違はないのだと思へる。
 古記録といふよりも文学に属するが、かの『紫式部日記』には藤原道長邸で寛弘五年に開かれた道長の孫の親王誕生五十日の祝ひに集ふお歴々の人柄が描かれてゐる。酩酊した右大臣顕光が几帳の綻びを引きちぎって中宮彰子付きの女房らに絡むと、中宮大夫斉信が催馬楽を歌ってその場を宥め、けれども隅の方では権中納言隆家も別の女房の袖を引いて戯言を云ひ、さうかと思へば道長に呼ばれた侍従宰相実成が父の内大臣公季の前を避けて進み出ると、とうに三十を過ぎた嫡男の礼儀正しさに内大臣は酔ひ泣き、左衛門督公任は作家・紫式部に「この辺に若紫はゐないか」と顔を覗かせて聞き流され、皆が酔態を晒すそんな宴の場でも女房らが当代の華美禁止令に反してゐないか右大将実資は目を光らせてをり、道長の子息や宰相中将らは宴の終はりにも騒ぎ続け、退散を目論んで物陰に隠れてゐた紫式部は道長に見つかってしまひ、一首詠めば解放しようといふ道長の求めに彼女が仕方なく応じると道長はそれに返歌して自画自讚をするは、娘の彰子に家族の幸せを冗談めかして語るはと上機嫌で、妻の倫子が聞き呆れたのか自室へ戻らうとすると彼は慌てて見送りに追ひかけたのださうな。正直あまり参加したくない飲み会だな。
 この日の宴は道長や実資の日記にも見えるが、かかる一幕は窺へない。つまり幾つもの記録が残ったことで複合的に往時の姿が鮮明になってゐる。すなはち、ブログやSNSも良いが自分のやうに紙に書き残すことも後世には有用で、また酒乱は千年から変はらないことがわかるといふことだ。新人諸君へ贈る先輩の助言である。
(ライター・史学徒)

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