杜に想ふ
山に拝する 神崎宣武
令和6年04月15日付
5面
私は、東京に事務所をもち郷里(岡山県)の神主づとめも続けてゐる関係で、東海道・山陽新幹線をよく利用する。年間で二十往復はするだらうか。
そのなかで、近年少々気になることがある。
車窓から景色を眺める人が少なくなってゐるのだ。昼間からブラインドを下ろしたままの人もめづらしくはなくなった。そして、そのほとんどの人がスマートフォンやノートパソコンに見入ってゐるのである。
新聞や書籍を読む人も少なくなってゐる。
あはせて、飲食をゆっくり楽しむ人も少なくなった。だからであらうか、新幹線では、昨年来段階的に車内販売が中止となった。
旅のあり方が大きく変はってきてゐるのだ。そのことを批判するわけではないが、車窓の風景を楽しみながらゆっくり飲んだり食べたりしてゐたかつての旅が懐かしい。そこには、体感上の発見があったはずだ。旅の歴史を共有しての共感もあったはずだ。
たとへば、富士山への憧憬。富士山への畏敬。意識はしないまでも、富士山を眺望することを誰もが楽しんでゐたはずだ。晴天の日、以前は新幹線の社内放送でもそれを知らせるアナウンスがあった。すると、反対側の席に座ってゐる人までが立ったり移動したりして富士山を望まうとしてゐたものだ。その車内放送も、このごろとんと聞かなくなった。
「右富士」といふ言葉を知る人も少なくなったのではあるまいか。右富士とは、東海道新幹線の上り、安倍川(静岡県)にかかる手前で右手に見える絶景である。車窓からだと、一礼して柏手を打つ間ぐらゐのほんの一瞬なので、注意してゐないと見逃してしまふ。
右富士なる賞讚が生まれたのは江戸期のことだ。江戸に向かふ東海道中で右正面に見える絶景を旅人たちが賞したのだ。
富士山は、ユネスコの世界遺産にも登録されてゐる(平成二十五年)。しかし、自然遺産としてではない。文化遺産としてである。以前にも本欄でふれたが(平成三十一年一月二十一日付ほか)、それは、信仰の山といふ評価にほかならない。なのに、関心がさほどに深まらないのは、どうしたことだらうか。あるところでそんなことを話してゐたら、某氏が言った。「SNSに載るビューポイントには人が集まってゐる」と。しかし、そこで黙拝をする人がどれほどゐるだらうか。
駿河の富士だけではない。各地に○○富士と名のる神体山が数多く存在する。御嶽(オンタケ・ミタケ・ウタキとも)に代表される神体山も数多く存在する。それは、歳神が宿るところでもあり、水神や田の神が宿るところでもあった。また、伊勢の朝熊山のやうに祖霊が宿るとする霊山も各地に分布する。それは、私どもの先祖が代々自然と共存をはかってきた証しでもあるだらう。
さて、それを次世代にどう伝承していけばよいのか。新幹線に乗るたびに悩ましく思ふことである。
(民俗学者、岡山・宇佐八幡神社宮司)
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