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論説 神宮式年遷宮の御準備 聖旨奉戴し一致協力を

令和6年04月15日付 1面

 去る四月九日、神宮司庁で開かれた記者会見において久邇朝尊神宮大宮司は、畏き辺りより次期神宮式年遷宮御準備に関する御聴許(お聞き届けになること)を賜ったといふ謹話を明らかにし、令和十五年斎行予定の第六十三回神宮式年遷宮に向けた御準備を本格的に始動する旨を宣言した。
 先に久邇大宮司は、天皇陛下に拝謁した折、次期遷宮御準備に関する聖旨を賜ってをり、その御発意を奉戴した神宮では、具体的次第に関する伺書を宮内庁長官に提出してゐたが、このたび正式に御聴許遊ばされたのである。洵に畏き極みであり、我々は「皇家第一重事」(『遷宮例文』)、即ち天皇祭祀の最重儀としての神宮式年遷宮の根本義を改めて実感することとなった。


 周知の如く、伊勢の「神宮」とは、皇祖たる「天照坐皇大御神」を奉斎する皇大神宮(内宮)と皇祖大御神の御饌都神たる「豊受大御神」を祀る豊受大神宮(外宮)、この両正宮に附属する別宮以下諸宮社を含めた総称である。ただ、「神宮は徹頭徹尾一元的存在で、豊受大神宮も十四別宮もすべて皇祖大御神の祭祀に帰一するもの」かつ「その本質を尋ぬれば、神宮祭祀はすべて天皇の御親祭に基くもの」である(阪本廣太郎『神宮祭祀概説』)。
 大正四年、神宮は「今も尚ほ神社たるのみに非ずして、皇宮の一部分たる性質を有する」(有賀長雄『帝室制度稿本』)と論じた者もゐた。神宮は、〈皇宮〉に加へ、〈神社〉の性質をも兼ね備へるゆゑに「私幣禁断」と「国民奉賛」(一般国民の参拝含む)の両面を有してきたことを示唆する論である。
 むろん、神宮存立の第一義は、あくまでも天皇の命により皇祖の「御魂」が宿る皇位と不可分な神鏡(八咫鏡)を奉祀せしめられた天皇祭祀の場といふ点にある(神鏡と皇位との関係は、昭和三十五年における池田勇人首相の答弁書で確認された)。だからこそ、聖慮(御聴許)なしに神宮式年遷宮を斎行することはできないのである。


 原則として二十年に一度おこなはれてきた神宮式年遷宮制度は、天武天皇によって定められた。持統天皇の御代に初めて斎行されて以来、中断時期もあったが千三百年以上に亙って続けられ、これまで六十二回を数へる。
 昭和四年の第五十八回遷宮では、「上皇室より下一般国民に至るまで挙国一致」(神宮司庁編『遷宮要解』)の奉祝が名実ともに実現、史上最大規模を誇った。しかし、戦時下に準備が始まった昭和二十四年予定の第五十九回遷宮は、敗戦、占領の渦中で事業継続が不可能となり、昭和二十年十二月十四日には昭和天皇が遷宮停止の旨を御沙汰になられたことが公表された。翌十五日の神道指令や昭和二十一年二月二日の宗教法人令改正により、已むなく二月三日には神社本庁が、三月六日には神宮が「宗教法人」として発足した。結局、第五十九回遷宮は半官(戦前)半民(戦後の民間組織による国民奉賛)で完遂し、昭和二十八年に斎行された。
 昭和四十八年の第六十回遷宮では、天皇の御発意ではなく神宮大宮司の伺書に対する御聴許といふ方式で御準備が始まった(昭和三十九年四月二日)。次に平成五年の第六十一回遷宮では、神宮大宮司が拝謁して親しく御発意の御言葉を賜り、神宮がその聖旨を体した伺書を宮内庁長官に提出した後、正式な御聴許の回答を得て御準備が始動してゐる(昭和五十九年四月四日)。この天皇垂範、聖旨奉戴による国民奉賛の遷宮方式は、平成二十五年の第六十二回遷宮(平成十六年四月五日に正式な御聴許)と今回(次期遷宮)にも踏襲され、定着したといへる。


 内憂外患交々至る昨今、神社界にも極めて難しい諸問題が突き付けられてをり、まったく楽観できる情勢にないが、遷宮に関しては、御聴許を拝した今、「待ったなし」の状況に立ち至った。
 三十年以上前、神宮の将来を憂へた先人は、遷宮の適正規模摸索と、遷宮を国の責任にておこなふ正則へと戻すことをも含む「神宮制度是正問題」への取り組みについて、「嘱望し遺託す、継走の世代人よ」(幡掛正浩「わが遺託ごと」)と呼びかけた。かかる遺託に対し、神社神道人は如何に応へられるのか。今こそ「全国神社の集中的な積極的な一致協力」(本紙昭和二十一年七月十五日付社説)による叡智の結集と実践の統合が必要ではなからうか。
令和六年四月十五日

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