「五十号百号で斃れてもやらなければならない」--。神社本庁初代事務総長の宮川宗徳が本庁独自の新聞の必要性を葦津珍彦に訴へたのは、本庁設立から四カ月後の昭和二十一年六月だった。
神社本庁がまづ取り組むべき課題として、(1)国有境内地の払ひ下げ実現 (2)神社界専門の新聞の発行--を掲げる宮川にとって、神社新報の創刊は悲願でもあった。
翌七月、神社新報は第一号を発行した。「創刊の辞」にはかう記されてゐる。
一言にしていふならば、日本人の宗教的真心の結晶が神社として成立してゐるのである。
神社が停滞することはそれだけ日本人の宗教心が停滞することであり、神社が歪められることはそれだけ日本人の心が歪められることである。
GHQが神道を最も厳しく圧迫してゐた時代である。入れなければ占領当局が発行を許さない独得の言葉も含まれてゐる。「検閲逃れ」の特殊技術も巧みに使用した。それでも神社新報は「神社は国民の基礎信仰である」といふ姿勢を明確に打ち出した。
新聞作成の主たる意図は、全国の神社人が全く予想もしなかった神道指令の下で心理的恐慌情況におちてゐる人が多い。その神社人に、これまでの神社人には理解しがたい「指令」についての知識を理解させ、「合法的」に神社の祭祀維持のできる道を啓蒙教育することが第一だった。
(神社新報選集補遺)
占領政策によって神道が圧迫される中、また物資不足や毎月何割と上昇するインフレの状況下、新報が毎週正確に全国に配布されることは、それだけでも全国神社人の支へになった。
占領から数年が経ち、時代がやや落ち着いてくると、神社新報は、GHQが腕力をもって輿論を圧倒する気力がないと判断、占領政策に対する巻き返しの運動に重点を少しづつ移していく。
神社本庁も昭和二十六年二月、「我々はいかなる事情にならうとも神社人として執るべき途は祭りの継承によって建国記念日を顕彰して行くべきであると堅く信じてゐる」とする高階研一事務総長談話を発表。二十七年一月からは「紀元節を復活する署名運動」を全国の社頭で開始してゐた。
昭和二十七年四月二十八日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は独立を恢復した。神社新報社も社内に政策研究室を設け、大石義雄・緒方竹虎・井上孚麿・西田廣義など社内外の人々の協力を仰ぎ、神社本庁や新報の理論固めを一手に引き受けた。
しかし、憲法や宗教法人法など占領中に制定された諸法令がもたらした洗脳政策は予想以上に大きく広がってゐた。神宮の神器の法的地位確認(昭和三十五年)、「建国記念の日」制定(四十一年)、剣璽御動座の御復古(四十九年)、津地鎮祭訴訟最高裁合憲判決(五十二年)元号法制化(五十四年)など、一定の成果はみられたものの、憲法改正、宗教法人法問題、神宮の真姿顕現、靖國神社の公式参拝・国家護持運動など、いまなほ神社界に残された課題は少なくない。
昭和六十四年一月七日早朝、昭和天皇は崩御あらせられた。神社新報も特別編輯態勢で臨み、平成元年一月八日付で号外を出した。一面「聖上崩御」、二面「新帝践祚」「改元」、三面「社説・奉悼のことば」四・五面「ニュース・悲しみ列島襲ふ」、六面「神社本庁の通達」といふ紙面構成であった。御代替はりといふ重大な時期のため、編輯方針はできるだけ正確に、かつ格調高い紙面を目指した。次号も「新帝『朝見の儀』」をトップに、社説「平成の新帝への忠誠」を掲げ、昭和天皇を追慕する斯界三人(宇野精一東京大学名誉教授、春田宣國學院大學長、谷省吾皇學館大學長)の奉悼文も掲載。御代替はりの一連の社説は葦津珍彦(当時社友)が執筆した。
終戦直後、憲法と皇室法が変はった時、憲法学者の間では「もうこれで大嘗祭は廃絶されるであらう」との意見が大勢を占めてゐたが、その大嘗祭も無事おこなはれた。神社関係有識者でつくる神社新報皇室法研究会が研究の成果をまとめた『現行皇室法の批判的研究』(昭和六十二年)が、各方面に大きな影響を与へたことは間違ひない。
いま、神社新報は創刊六十周年を迎へた。「五十号百号で斃れて已まん」意志で重ねた発行回数も、今号で二千八百四十二号を数へる。それは神社本庁の機関紙として、また全国神社の機関紙として、戦後の六十年を神社とともに歩んできた足跡でもある。
もし、昭和二十一年に神社新報が創刊されてゐなかったら、神社界はどうなってゐただらうか。ある論説委員はかう語る。「初期の本庁と新報は、車の両輪でした。敗戦・占領のパニック下、分裂の危機にあった全国神社を包括して道統を護持した本庁。混迷下の神職に、神社存続のための精確な情報を発信し続けた新報。いづれが欠けても、戦後神社の団結と復興はありえなかったでせう」
われわれが世上のものである限り、ひとり時の流れと無関係ではゐられない。神社新報も神社界の公器である以上、今後も必要とあらば“痛み”を伴ふ制度の改廃も躊躇しない。しかし、「全国十万に近い神社を神道指令の暴圧から護り、極めて厳しい状況の中、勇気を持って神社の護持へと結束させる必要がある」(葦津珍彦)とする基本方針のもとに団結し、先人が営々と築いてきた「敬神尊皇」「神社奉護」を正とする精神を、神社新報は継承しつづける。