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杜に想ふ 巫女神楽 神崎宣武

令和7年06月23日付 5面

 伊勢神宮(内宮)の神楽殿で御神楽を奉納、榊枝を手にしての巫女舞を拝した。あらためて、巫女舞に注目したい、と思った。
 「巫女神楽」ともいふ。神楽のなかでは、巫女舞が古い。男性の神職たちが表出してくるのは、律令国家の成立(八世紀)以降のことであらう。
 巫女といふ文字も、古くは「神子」であった。神の身近にあっての霊媒者。つまり、神懸って口寄せをする呪術者であった。
 一方で、舞をともなふことにもなった。『古事記』での天宇受売命を引きあひにだすまでもなく、舞をともなふことによって神懸りがより高まっていくのである。が、その系譜は、現代にはほとんど伝はってゐない。
 しかし、陸中沿岸(岩手県)の「神子舞」のやうな事例もある。神社の祭礼には湯立による託宣をおこなひ、神子舞も舞ふのである。ただ、それには、囃方と掛合ひの相手に黒森神楽の太夫(男性)たちを呼ばなくてはならない。
 また、もう一方で、高知県下の「イチ」の存在も注目に値しよう。世襲制の巫女で、現在明らかなところで、二家系が伝はる。祭典では、神職が主役。それが終はると、イチが主役となり、神職は囃方(太鼓叩き)にまはるのである。
 陸中海岸の神子舞も土佐のイチの舞も、その足運びが小廻りである。そこで、京都の大田神社(上賀茂神社の摂社)での巫女神楽にも注目しなくてはならないだらう。巫女は、藁製の円座の上で、鈴を手に舞ふのである。舞ふ、といっても、左・右・左と三回づつ静々と廻るだけ。その舞殿を「神懸りの間」と言ひ伝へるところからも、神懸りの舞処とは狭きことが前提となるのだ。これも、天宇受売命が「槽伏せて」その上で舞ふ故事を引きあひにだすまでもないだらう。
 「採りもの」についても、同様である。神楽の分類では、採りものの神楽をとりあげる研究や所見が少なくない。そこでは、幣や鈴や扇が中心になる。しかし、神子(巫女)にさかのぼって採りものを確かめるには、それが適当ではなからう。専門的な加工技術が加はらないところでの榊や笹をとりあげなくてはならない。それも、巫女神楽のなかに残存、伝承例がみられるのである。
 現代に伝はる巫女神楽は、多くが、緋色の袴に白の浄衣で鈴や扇を持って静々と舞ふ形式であらう。もちろん、そのなかにも古い形式がある。たとへば、春日大社での「八乙女舞」などは、詩歌や文献からも延喜年間(十世紀頭)にまでは遡れる古式である。
 全国各所に神楽がある。その数は、数百件にも及ぶだらう。それが、派手派手しく郷土自慢の題材ともなる。もちろん、それは時代の変化として結構なことだ。
 しかし、神楽とは、まづは神に奉納するものである。そして、その祖型は巫女神楽にある、とその歴史も共有したいところである。
(民俗学者、岡山・宇佐八幡神社宮司)

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