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杜に想ふ 日光結構、もう結構 植戸万典

令和7年05月26日付 7面

 日光を見ずして結構と云ふ勿れ。諺といふより「ありがた山の鳶烏」とか「恐れ入谷の鬼子母神」とか、江戸っ子の地口にも近しいやうに思へるが、東照宮の壮麗さこそ結構なものだと江戸時代の民をして云はせたといふことは、今に伝へられた姿からも偲ばれる。
 これまでなぜか機会を逸してゐたが、先般晴れて訪晃(「日光」では二文字を合はせた「晃」の字を結構使ふ)の縁を得た。これで大手を振って結構と云ふ資格が得られたので今後は結構軽率に使っていくことにならう。
 日光で投宿したのは、現存する本邦最古のクラシックホテルとされる日光金谷ホテルである。石畳の結構急な坂の先に建つレトロな外観、和と洋が結構混淆した内装、出迎へるホテリエらの結構叮嚀な佇まひ、朝食の結構美事なオムレツ、どれも歴史の香りと格式を味はふに不足ない、じつに結構なホテルだ。
 このホテルの前身は、明治六年開業の金谷カッテージ・インといふ。ローマ字表記法の考案者として結構知られてゐるヘボン博士が明治初年、日光で金谷善一郎宅に逗留。その博士の助言で善一郎は外客向けの宿泊施設を開業し、以後、結構な著名人を迎へる日本の代表的なホテルができた。もっとも、それは結構尽くめの創業物語でもなかったさうだ。
 金谷家は代々笙を以て仕へてきた日光楽人であり、維新を経て東照宮の立場も激変したことで生活に結構窮してゐた。本業の傍らに善一郎は旅舎を営むが、楽人としての仕事はさほどなかったものと思はれる。結構苦しい家計事情のなか、若い善一郎は周囲の協力を得ながら新たな宿泊業に挑んだのであらう。
 維新後の日光は楽人だけが苦しかったわけではない。幕府の庇護を失った日光は、その壮麗な姿も結構な危機に瀕してゐた。そこで日光山の祠堂や名勝の保存を目的とする民間団体の「保晃会」が明治十二年に設立されることとなる。会には旧幕臣らの結構な大物も参画したが、発起は地元有志だった。東照宮信仰は幕府だけでなく、結構広がりのあったものとして捉へる視点も必要かもしれない。
 さうして保たれた東照宮の境内には、今も往時の灯籠が結構残ってゐる。個人的に結構注目したいのが、明和二年の百五十回神忌に奉納された石灯籠だ。そのなかには「主殿頭従五位下源朝臣田沼意次」の銘のもの、そのすぐそばには「館林城主/従四位下行侍従兼右近衛将監源朝臣松平武元」と刻まれてゐるものも立つ。『社家御番所日記』によるなら当年四月十五日に東照宮を拝礼した御側御用取次の田沼意次は、翌日に拝礼する老中首座で神忌惣奉行の松平武元の到着前に著座の席などを内見してをり、ここに関しては両者が結構連携してゐたやうに窺はれる。対立軸で語られがちだった二人にも、また結構違った側面の関係性があったのではないかしらん。
 ここまで書いてみたが、結構の初心者ではどうにもまだ使ひ慣れぬ感が否めない。この辺でもう結構だらう。
(ライター・史学徒)

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