文字サイズ 大小

論説 山口祭・木本祭 御歴代による公の祈りに思ひを

令和7年05月12日付 2面

 今号掲載の通り、五月二日に伊勢の神宮で山口祭と木本祭が斎行された。
 第六十三回神宮式年遷宮における諸祭の嚆矢と位置付けられる山口祭は、御杣山から御用材を伐り出すにあたって山口に坐す大神を祀るもの。また木本祭は、最初の御用材として正殿の御床下に奉建する心御柱の御用材を伐採する祭で、その木本に坐す大神を祀る。いづれも祭典日時については、今年二月七日に天皇陛下より御治定を仰いで定められた。
 詳細は記事に譲るが、まづ以て遷宮諸祭の始まりとなる山口祭と木本祭が無事斎行されたことを謹んで祝ひ奉るものである。また神社関係者としてはこの機会に、遷宮完遂のための尽力に向けて決意を新たにしたい。


 そもそも二十年に一度、正殿以下の殿舎を新しくする式年遷宮が始められたのは今から千三百年前の飛鳥時代。第四十代・天武天皇による御発意に基づき、続く第四十一代・持統天皇の四年(六九〇)に皇大神宮(内宮)で、続いて同六年(六九二)に豊受大神宮(外宮)で執りおこなはれたのを初回とする。以降、中世の戦乱期において一時中断があったものの、直近では平成二十五年に中心的祭儀である内外両宮での遷御の儀が執りおこなはれた第六十二回まで連綿と続けられてきた。
 この間、朝廷権力の衰微にともなふ役夫工米の制の導入、勧進聖の尽力による織田・豊臣両政権の奉賛、徳川幕府の協力など、時代の移ろひのなかでの変遷もあった。またとくに明治初年の神宮御改正、さらに戦後の官制廃止にともなふ神宮の宗教法人としての出発など、さまざまな状況の変化にも際会してきたのである。
 かういった歴史的な変遷や変化のなかでも一貫するのが、常に「国安かれ、民安かれ」と祈られる御歴代の聖慮であったのではなからうか。さうした大御心に基づき、古代以来の式年遷宮が現在まで続けられてきたことの尊さを改めて噛みしめたい。


 先人たちはこの神宮と、そこでの祭祀について、「神宮は畏くも天皇が皇祖の神勅に基き、皇大御神を奉祀あそばされる大宮であつて、その祭祀の御主体は天皇御一人にあり、このことは神宮御創建以来今日に至るまで易ることのない神宮祭祀の根本義」と認識。さらに「その祭祀が国家の厳粛な公事として執り行れて来たところに深い意義」を認めてきた(阪本廣太郎著『神宮祭祀概説』、昭和四十年、神宮司庁刊、坊城俊良神宮大宮司の序より)。かうした理解のもとで、神宮が国家の手を離れて宗教法人となった戦後においても、式年遷宮の御準備を始めるに際して天皇陛下から御聴許を賜るといふことが続けられてきたのである。
 「皇家第一の重事、神宮無双の大営」(『遷宮例文』)といはれる式年遷宮。千三百年に及ぶ悠久の歴史、社殿建築や御装束神宝に係る技術・文化の継承など、さまざまな点が注目されてきた。何よりそこに御鎮座以来の御歴代による公の祈りがあること、また式年遷宮はもとより神宮における祭祀が国家の厳粛な公事として執りおこなはれてきたことを再確認したいものである。


 神宮には前回の式年遷宮を一つの契機に多くの参拝者が訪れてをり、この大型連休も大勢の人出で賑はった。
 山口祭・木本祭を終へ、今後は六月の御杣始祭・裏木曽御用材伐採式に続いて東海地区の神社関係者らによる御神木奉迎送もあり、さらに御樋代木奉曳式ののち、前例に倣へば天皇陛下の日時御治定を仰いで御船代祭が執りおこなはれる予定だ。すでに一月一日に殿舎並びに御装束神宝の調製をはじめ諸祭の準備にあたる執行機関「神宮式年造営庁」が発足。また二月一日には神宮大宮司の諮問に応じて重要事項の調査・協議をおこなふ審議機関「神宮式年遷宮委員会」が設置されてゐる。さらに奉賛会の組織と募財活動の開始にあはせ、斯界においても広報活動・啓発活動が進められていくこととならう。
 令和十五年に予定されてゐる内外両宮での遷御の儀に向けて、いよいよ式年遷宮の祭儀が始まった今。この式年遷宮を、古代からの御歴代による公の祈り、そして神宮・神宮祭祀の意義について、国民がより理解を深めるやうな機会ともしたい。その先に、戦後先人たちが悲願としてきた「神宮の真姿顕現」といふことも見えてくるのではなからうか。
令和七年五月十二日

オピニオン 一覧

>>> カテゴリー記事一覧